濃いめのブラックコーヒーでも啜りながら、ロルカがニューヨーク、特にウォール街について言ったことを思い出し、マンハッタンのカフェにでもいる気分にひたろうか。まるで植草甚一ふうに…。
「ここには、全世界からの金の流れと共に死がやって来ます。精神の不在をこの地ほど感じさせる所はないでしょう。…私はこの目で、ドル紙幣の最後の滓、死んだ金の奔流が海に向かって流れていくのを見ました。いろいろ自殺した人とか気絶した人を見たことがありますが、この時ほど、真の死、希望なき死、腐食そのもの以外の何物でもない死というものを感じさせられたことはありません。」
スペインの詩人ガルシア・ロルカにとって、夜陰にまぎれ、静かなジプシーの町ヘレス・デ・フロンテーラに忍び寄る、スペイン警察隊の馬の毛色は闇の色に似た漆黒であるらしい。暴力と血と死の匂いが、夜らしい夜に、静かに眠るジプシーの町に忍び寄る。漆黒の馬は、独裁と暴力の不吉なイメージなのである。 彼らの馬は黒 蹄鉄まで真っ黒 マントに光る インクと蝋の染み 鉛製の頭蓋骨 彼らに涙はない 人造皮の魂ひっさげ 街道をやってくる … (「ロルカ詩集」長谷川四郎訳 みすず書房)
ロルカは漆黒の馬に不吉なイメージを重ねたが、私は漆黒の馬が好きである。日本軽種馬登録協会の規定によれば、漆黒の毛色とは青鹿毛(青毛)を指す。黒鹿毛よりずっと黒い、青鹿毛の競走馬は年に数頭しか生まれない。その深く黒光りする毛色は実に美しく、強そうに見える。
マンハッタンカフェは父サンデーサイレンスの毛色にそっくりの、その青鹿毛であった。
最初にマンハッタンカフェという馬名を聞いたとき、お洒落な良い名だ、牝馬かな、と思った。馬主はカフェのチェーン店か、コーヒーの輸入に関係しているのかな、とも思った。いずれも外れで、マンハッタンカフェは牡馬であった。
馬主は西川清氏と吉田照哉氏の共同所有であった。西川氏は、駐車場のパーク24を創業し、その所有馬全てにカフェの冠名を付け、その多くを小島太厩舎に預託していた。マンハッタンカフェも小島太の元に入厩した。
小島太の騎手時代、イベントの仕事で何度か会ったことがある。その第一印象は、生意気そうな(失礼!)鼻っ柱の強そうな人だと思った。そう上手い騎手とも思えなかったが(失礼!)、その豪快な騎乗はまことに華のある騎手で、当時の競馬イベントには欠かせないスターだった。明るく、やんちゃな侠(おとこ)っぽさと強気な発言、その鼻っ柱の強そうな態度は、私には演技のようにも思われた。それは自らの勝負師魂を鼓舞するためのものではなかったか。
岳父の境勝太郎厩舎の主戦騎手として、またサクラの冠名で知られるモランボンとパチンコ店の全演植オーナーに可愛がられ、彼の馬で活躍した幸運な騎手でもあった。ダービーもサクラショウリ、サクラチヨノオーで二勝した。サクラショウリのような気性の荒い馬を御したのだから、大したものなのである。
引退して調教師になると、定年を迎えた岳父の境勝太郎師の管理馬を引き継ぎ、またカフェの西川オーナーの馬を預託され、イーグルカフェというアメリカ産馬で重賞とGⅠを初制覇した。
ちなみに私は引退した境勝太郎翁の美浦のご自宅にお伺いし、取材をさせていただいたことがある。そのおり「美浦黄門」翁は、小島太の騎手時代の技倆や調教師としての技倆に対し、大変厳しい発言をされたことを覚えている。師匠というものはそういうものなのだろう。また翁はお孫さんの話となると相好を崩した。そういうものなのだろう。そうして、グリーンチャンネルのレース映像を見ながら、いろいろ教えて下さった。
漆黒のマンハッタンカフェは、もともと蹄が弱かったらしい。そのためかデビューは三歳になってからの一月末と遅かった。
主戦騎手は蝦名正義である。 蝦名もまた、寡黙な勝負師の風貌と態度を持した人である。
春のクラシックには間に合わなかったが、夏競馬から力をつけ、菊花賞と有馬記念を勝った。マンハッタンカフェは強かった。成長力のある中長距離向きの馬で、古馬となって春の天皇書も制覇した。同世代のダービー馬ジャングルポケットは、マンハッタンカフェに完敗した。
その後マンハッタンカフェは凱旋門賞に向かった。しかしなぜ凱旋門賞に挑戦したのだろうか。彼はこのレースで屈腱炎を発症し、ファンは競走馬としての姿を二度と見ることができなかった。 種牡馬となってからのマンハッタンカフェは素晴らしい。種牡馬ランキングの一位にも輝いた。しかし、何か物足りない。屑馬が出ない、みなそこそこに走るといった種牡馬であり、その産駒は、まだ強烈な個性や底力を見せてくれないのだ。
牝駒のレッドデザイアは確かに強い馬だと思うが、不幸にもブエナビスタと同世代であった。彼女の二つ上の世代にはダービーや天皇賞、ジャパンカップを勝ったウォッカがいた。ダイワスカーレットもいた。ブエナビスタも秋の天皇賞やジャパンカップなどのGⅠを勝ちまくった。レッドデザイアはそこまでには及ばなかった。
牡駒のジョーカプチーノはGⅠレースを制覇したが、本質的に優れたスピードを持ったマイラーであり、強いという印象に欠ける。早熟系であり、また一度闘争心を失うと精彩を欠き、なかなか立ち直れないタイプと見受けられた。種牡馬となったが、父とは全く異質だと思われる。
ヒルノダムールは春の天皇賞を勝ったが、やっと勝てたという印象で、強いという感じは全くない。種牡馬となったが、マンハッタンカフェの後継種牡馬としては心許ない。 ガルボやショウナンマイティは重賞勝ち馬だが、似ているのは青鹿毛の毛色ばかりで、強さは全く父に及ばない。
2012年生まれの美浦・大竹厩舎の牝駒ルージュバックは、なかなか楽しみである。馬名は母ジンジャーパンチに因み、ブランデーとジンジャエール、クルボアジェVSOPルージュで作ったカクテルが「ルージュバック」なそうな。私は酒のことは全く分からない。
昨年9月、新潟の新馬戦(芝1800)でデビューした。大竹調教師はこの馬を、中長距離向きと見たのだろう。鞍上は戸崎圭太騎手である。終始落ち着いて中団より後方に位置し、直線、大外から何と上がり3ハロン(600メートル)を32.8で差しきっている。これは凄い!
二戦目は11月の東京・500万下の百日草特別(芝2000メートル)戦で、終始後方で落ち着き、上がり33.3であっさり追い込み勝ち。この時に破った牡馬ベルーフは、その後に京成杯を勝ち、今年のクラシック戦線の有力馬と目されている。
ルージュバックが一躍注目されたのは、関西に向かって京都競馬場の「きさらぎ賞」(芝1800)に出走し、男馬を相手にあっさり勝ったことによる。きさらぎ賞は男馬たちがクラシック第一弾・皐月賞へのステップレースと位置づけ、ここから東上するのである。この日ルージュバックは終始中団より前で落ち着き、直線他馬がいっせいに追い出しても、戸崎騎手は落ち着いたままでなかなか追い出さない。と、馬群の真ん中から豪快に先頭に踊り出て、ルージュバックは楽勝した。これは強い! 勝ち方を知っているかのようである。
落ち着きもあり、精神的に強そうだ。明らかにレッドデザイアより上だろう。すでにブエナビスタ、ジェンティルドンナ級との期待や評価もあがっている。桜花賞に行くのか、次のレース次第では、ウォッカのようにダービーに挑戦すると面白い。どちらも酒だ。乾杯だ! 酒は飲めないので、マンハッタンのカフェでブラックコーヒーでも啜りながら…。
ステイゴールドの牝駒キャットコイン(3戦3勝、デイリー杯クィーンC優勝)とどちらが強いのだろう。楽しみだ。今のところルージュバックと思われるが…。まあどうなるか、競馬は分からない、難しい。彼女、彼らは精神的動物なのだ。拗ねたり、やる気を失うこともある。どうかどうか無事に走り続けて、面白い、凄い、素晴らしいレースを見せてほしい。