栗原郡の村々で卓三郎は熱心な布教活動を続けた。親戚などにも入信を勧め、彼らを受洗させた。やがて、いささか度が過ぎるまでの布教活動は、親戚の広田家や菊池家などから批判もされ、絶縁もされた。
卓三郎は矯激な行動に出た。「神棚ニ置キ奉ラレシ伊勢太神宮ノ御玉串ヲ一束ニ纏メ屋敷ノ裏ニ投棄テ」「祖先ヨリ雙親ノ位牌迄墓所ヘ捨テ去リ」、水沢県に訴えられてしまい、彼は不敬罪で登米県の獄に百日間投獄されたのである。何しろ維新政府にとって神道は「国教」なのである。
その時彼はキリシタンという理由だけで、片眉と片鬢を剃り落とされ、作務に就くときは鉄鎖に繋がれた。それでも卓三郎は同房の死刑囚に入信を勧め、獄内で受洗させた。卓三郎は密かに飯粒を固めて十字架を作り、獄衣から抜いた糸を通した。処刑の朝、卓三郎はその十字架を彼の首に掛けて送り出した。
維新政府は浦上のキリシタン信徒をはじめ、各地のキリシタンを過酷に弾圧した。そのため各国から厳しい批判を浴び、それが不平等条約改正の大きな障害となったのである。しかたなく政府はキリシタン禁令の高札を下ろしたが、全国に密偵を配して、キリシタン信徒の情報を集め、外国政府の目の届かぬところで弾圧を続けていたのである。
この入獄の体験は、卓三郎に反権力と人権意識を醸成させた。この年、板垣退助らが「民選議院設立建白書」を左院に出し、これが自由民権運動が湧き起こるきっかけとなっていった。
出獄後も卓三郎は熱心な布教活動を続けていたが、心中に出郷の意思を固めていた。東京でニコライ司教から直接指導を受けたい。大槻盤渓先生も、石川桜所先生も出獄し東京にいる。先生にもお会いしたい。明治八年の春、卓三郎は三町四反の地券(明治四年暮れから発行)を懐に故郷を出た。
大槻盤渓は終身禁固刑であったが、彼の人物に感銘を受けた獄吏や獄医師が謀って重病の届けを出し、明治三年に仮出獄・謹慎となった。実は盤渓先生、至って元気だった。その翌年謹慎も解かれた。彼は文明開化の世相に強い関心を払いながら、東京で余生を送っていた。陸軍軍医監出仕の話も寄せられたが、「亡国の臣、何の面目あって朝班に就くべき」と言ってその話を蹴っている。酔うと、かつて鎖国攘夷を唱えた政府枢要の地位にある者たちを「あの大たわけ者ども」と罵っていたという。
一方の石川桜所は、陸軍軍医総監の松本良順(※1)に招かれて兵部省軍医寮次官、陸軍軍医監に就いていた。松本良順は徳川家茂の侍医であり、桜所の先輩であった。
(※1)松本良順は佐倉藩の藩医で江戸で順天堂を創始した蘭医の佐藤泰然の子に生まれた。幕医の松本良甫の養子となり、オランダ医のポンペに学び、奥医師となった。維新後に山県有朋に招かれて陸軍軍医監となり、当時は初代軍医総監を務めていた。
ちなみに、老中を務めた下総佐倉藩主の堀田正睦は、藩士たちに蘭学を奨励し、優秀な藩士たちを幕臣として登用した。津田仙もその一人である。津田は外国奉行通訳に登用され、福沢諭吉らと共にアメリカに派遣された。津田は後に未だ七歳の娘の梅を、岩倉使節団と共にアメリカに送り出している。津田梅子である。堀田は外国事務取扱老中として日米修好条約締結に奔走したが、孝明天皇の勅許が得られず失敗に終わった。彼は井伊直弼が大老に就任すると失脚し蟄居した。
卓三郎が上京した一月後、福沢諭吉が三田に演説館を開いた。これも自由民権運動に強い影響を与えたのである。政府は讒謗(ざんぼう)律と新聞条例を発布して、言論弾圧を強化しはじめた。
明治七年、ニコライ司教は駿河台にギリシャ正教の教師を育成する伝道学校を開いた。卓三郎はその宿舎には入っていない。彼は盤渓先生や、駿河台に寓する桜所先生の所に居候し、そこから伝道学校のニコライの下に通っていたものと思われる。やがて卓三郎は尾張町の渡辺宗伯薬店に下宿した。
このニコライ司教の所で、卓三郎は永沼織之丞に出会っている。
この卓三郎より十五歳年長の永沼織之丞は元仙台藩士であり、大槻盤渓の愛弟子の一人だった。卓三郎の大先輩の兄弟子であり、養賢堂の教師でもあった。永沼も戊辰戦争では一隊を率いて転戦した歴戦の強者である。
戊辰戦争後に上京し、明治四年に安藤太郎(※2)や林董(ただす)(※3)の下で英学を学び、ジョン・バラの下で英語を学んでいる。また永沼は敬虔なギリシャ正教会の信徒でもあった。
彼は明治八年九月から西多摩郡五日市町に住み、五日市町の学校掛となり、勧能学校の初代校長を務めていたのである。卓三郎は兄弟子の永沼が、同じギリシャ正教の熱心な信徒であることを聞き知っていたであろう。
その頃から卓三郎は永沼に勧められて、しばしば五日市に足を運んだ。永沼と話すほどに、卓三郎は彼を尊敬し感化されていった。そして卓三郎は永沼から、安藤太郎やその師の安井息軒(※4)の話を聞いた。卓三郎が尊敬する米沢藩出身の雲井龍雄(※5)は、この安井息軒の弟子であった。卓三郎は永沼からギリシャ正教の教義や信仰の話を聞くより、安藤太郎や安井息軒の話や、五日市の人々の話を好んだ。
(※2)安藤太郎は幕臣で、姉が嫁いでいた海軍奉行・荒井郁之助から英学や数学を学び、大村益次郎から蘭学を、安井息軒から漢学を学んだ。彼は幕府海軍の見習士官として開陽丸に乗船し、榎本武揚と共に函館に向かった。榎本の下、五稜郭で闘かい、戦後獄に入った。出獄後は開拓使に出仕し、開拓使学校を創立している。この学校から内村鑑三や新渡戸稲造が出た。大蔵省や外務省に出仕し、岩倉使節団に加わって渡欧した。後に外交官時代のハワイでクリスチャンになり、麻布の自邸に教会を建てている。
余談であるが、五稜郭の敗戦で捕らえられた榎本武揚、荒井郁之助、大鳥圭介ら幹部を、西郷隆盛は即刻打ち首にすべしと主張した。黒田清隆らは「彼らは新政府にとって有用な人物であり、その能力を生かすべきだ」と、西郷に猛反対した。西郷は、あくまで「賊軍を作らねばならず、その血が必要なのだ」と強硬に主張したという。「御用盗」の謀略といい、西郷は後世のイメージとは大きく異なる一面を持っていた。西郷の密命を受けた益満(ますみつ)休之助と伊牟田尚平らは、江戸で約五百名の浪人と盗人で御用盗を組織した。彼らは江戸城から大量の武器を盗み出し、江戸市中を昼日中から跋扈して富裕な商家を襲った。御用盗は恐喝、強姦、辻斬り、火付けと悪逆の限りを尽くしている。無論、西郷の狙いは「治安を乱す」ことで江戸市民人心の幕府不信、幕府離れを促し、幕臣や江戸警備に当たっていた諸藩を挑発し、江戸に戦乱を起こすことであった。また挑発に乗った幕臣たちを討って、「目に見える賊軍」を作ることだったのである。さらに西郷の狙いは、御用盗の「荒働き」によって、新政府の賊軍討伐資金と運営資金を得ることであった。西郷が益満らに商家から盗ませた金子は、総額で五十万両を超えた。御用盗の御用とは、官軍御用のことであった。益満は庄内藩士に捕らえられたが、勝海舟が身請け人となって釈放され、後に彰義隊との戦いの最中に、流れ弾に当たって亡くなったと伝えられたが、その死体を確認した者はいない。
(※3)林董も幕臣である。順天堂の佐藤泰然の次男で、松本良順の実弟である。幕医の林洞海の養子となって、横浜のヘボン熟で学んだ後、慶応二年に幕命でイギリスに留学した。帰国後は幕府海軍の開陽丸の乗組見習いとして函館五稜郭に赴き、戦いに敗れて捕虜となった。後に横浜で維新政府の地方官僚として神奈川県への出仕を経て、岩倉遣欧使節団に加わった。帰国後は外務省に勤め、途中、工部省、宮内省、逓信省、香川県知事、兵庫県知事を経て、外務次官、清国や露国、英国特命全権公使等を歴任した。西園寺政権では外務大臣、逓信大臣を務めている。
(※4)安井息軒は儒学者、漢学者である。江戸期儒学の集大成と評価され、彼の下から雲井龍雄、谷干城や陸奥宗光など二千名の俊秀が輩出されている。
(※5)雲井龍雄は米沢藩士だが、幕末の京都で志士として活動し、維新政府に仕えた。しかし維新政府が奥羽越列藩同盟を討つと知るや、列藩同盟の兵士として抵抗する決意を固めて帰藩し、「討薩檄」を著して薩摩藩の罪を糾弾した。戦後再び維新政府に出仕するが、薩長専制に抗議して職を辞し、旧幕府方諸藩の藩士たちを糾合した。これが政府高官暗殺と政府転覆の陰謀罪に問われて、明治三年「首斬り浅」こと八代・山田浅右衛門によって斬首されている。
さて、永沼織之丞はどこでギリシャ正教に出会い、受洗したのだろうか。おそらく東京に来てからであろう。やはり養賢堂でロシア語に触れ、盤渓の親ロシア政策の影響で、ロシア人のニコライ司教に親近感を抱いたこともあったのだろう。
彼は生涯をギリシャ正教会の敬虔な信徒として、その節を曲げることなく、信仰に揺らぎを感ずることもなかった。ところが千葉卓三郎の信仰は、大きく揺らぎ、やがてギリシャ正教から離反していくのである。彼は実に悩める求道者だったのだ。
卓三郎は安井息軒に異様な関心を寄せた。その関心は、息軒が単に尊敬する雲井龍雄の師であるというだけではない。当代一流の漢学者、漢詩人という理由だけでもない。卓三郎らの故郷の惨状を詩にした「田間(でんかん)慟哭の声」の作者だったからだろうか。あるいは、息軒が当時最も苛烈なキリスト教批判の書「弁妄」の著者だったからか。無論、卓三郎も息軒が反キリスト者であることを知っていたはずである。
卓三郎はその息軒先生にお会いしたい、できれば漢詩などを学びたいと言い出し、永沼織之丞に安藤太郎先生から息軒先生への紹介状を書いてもらえないかと頼み込んだ。
永沼は安井息軒を直接知らない。無論、息軒が「弁妄」の著者でキリスト教批判者であることも知っている。安藤太郎から聞き及ぶ息軒の学問の高さや、人となりや、その漢詩の見事さも知っている。かつて仙台藩領で栗駒山から流れる迫川のあたりを旅した息軒が、重税で苦しむ民の悲惨な暮らしぶりと、施政者の非道ぶりを痛憤し「田間慟哭の声」という詩を作ったことも知っている。永沼も雲井龍雄を尊敬している。だから卓三郎が息軒先生に会いたい、できれば教えを請いたいという気持ちも理解した。
彼は卓三郎の敬虔な信仰が揺らぐとも思わなかった。しかし卓三郎の中には、もっとキリスト教の教義を極めたいという気持ちがあり、そのために反キリスト者の話に耳を傾けたいと思ったであろうことは否めない。
永沼は卓三郎の好学の情熱を愛した。
彼は安藤太郎を訪ね、同郷の後輩の話をし、安井息軒先生への紹介を頼み込んだ。安藤は危ぶんだ。息軒先生が高齢であり、ほとんど失明状態で、しかも身体も不自由になったと聞き及んでいたからだ。
先生はもう新しい門人はお取りになるまいと言った。しかし、永沼の熱意(卓三郎の)を汲んで、息軒先生への紹介状を書いてくれた。
卓三郎は安藤太郎の紹介状を持って、市ヶ谷に寓する安井息軒先生の下を訪ねた。息軒は幼年の時に天然痘を患い、酷い痘痕痕で片目が潰れていた。残る片目も七十六歳という高齢のため失明状態にあった。四肢も不自由となり、家人や住み込みの門人の手を借りねば起居も室内の移動も出来なかった。声音も弱まり、口ももつれていた。しかし、この高名な学者の頭脳は全く衰えを見せていなかった。
安藤の紹介状を弟子が耳元で代読すると、息軒は卓三郎に、大槻盤渓や養賢堂のこと、石川桜所のこと、戊辰戦争のことなどを尋ねて、その応えにしきりに頷いた。そして青年が、かの「田間慟哭の声」の地に生まれたことを知った。彼は卓三郎の弟子入りを許した。
これまで息軒は、故郷の清武郷(宮崎県)の郷校・明教堂で教鞭を取ったのをはじめ、飫肥(おび)藩の藩校・振徳堂、江戸の三計塾や、飫肥藩江戸屋敷の塾、戊辰戦争の疎開先の領家村(埼玉県川口市)等で、数千人の弟子を教えてきた。おそらく、安井息軒最後の弟子が千葉卓三郎だろう。
ちなみに森鴎外に、息軒の妻佐代を描いた「安井夫人」という作品がある。
卓三郎が「弁妄」の安井息軒の門人になったことは、栗原郡の信徒、同志に強い衝撃をもって迎えられた。加茂川佐助や半田盛保らは、ギリシャ正教の熱心な信徒として、共に布教に歩いた同志である。彼らは卓三郎に「…涕泣以テ爾(なんじ)ニ忠告ス 爾夫レ之ヲ察セヨ 半ニ望ンテ悵然タリ 阿民(アーメン)」と手紙で訴えた。
ギリシャ正教では選挙が行われ、沢辺琢磨が司祭に、酒井篤礼が輔祭になった。ロシアからパウエル主教も来日し、函館で神品機密という聖職者を叙する儀式が執り行われた。そのとき卓三郎の心は、すでにギリシャ正教から離れていたようである。彼は息軒の下で漢学と漢詩を学びつつ、さらに「弁妄」の論を聞いたに違いない。
やがて息軒が病に臥せると、その門を辞した。息軒はその約半年後に七十七歳七ヶ月の生涯を閉じた。卓三郎が息軒の下で学んだ期間はわずか九ヶ月余に過ぎなかったが、卓三郎の辞世の詩を読めば、石川桜所、安井息軒から得たものは実に歴然である。
安井息軒の下から離れても、卓三郎はギリシャ正教会に戻らなかった。彼のギリシャ正教への信仰は五年で終わったのである。永沼織之丞はあえて彼を糺さなかった。一時的な信仰の動揺と見たのかも知れない。卓三郎は永沼に誘われるまま、五日市の名士の家に遊びに行ったり、その学習会を覗いたり、永沼が校長を務める勧能学校の教師たちと交わり、助教として子どもたちの学習も見た。彼は五日市の人々と深く交わるようになり、土地の人々も卓三郎の識見を認めた。
この五日市の勧能学校や、八王子、多摩周辺の学校には、何故か旧仙台藩士たちが多く助教や教師を務めていた。永沼の推薦による者が多かったのだろう。五日市の勧能学校はやがて自由民権の梁山泊のごとき様を呈するようになる。
明治九年の春、卓三郎はフランス人のウィグロー神父の下でローマ・カトリック教会に入信した。ギリシャ正教とローマ・カトリックは千年に及ぶ対立と抗争の関係にあり、不倶戴天の敵である。ここに卓三郎の精神的な迷いと動揺の大きさや、矯激さ、一途さ、純粋さが見て取れる。
その純粋さは、実に感化を受けやすいところに表れ、その一途さは過激な行動に奔りやすい。軽佻浮薄にも見える。このような人物の代表例を、我々は歴史教科書で学んでいる。吉田松陰(※1)である。
(※1)松陰は幼くして「論語」等を丸暗記して神童と呼ばれた。彼は尊皇主義の狂信者である。松陰はアメリカに密航したいと狩野良知に相談した。狩野良知は安藤昌益を発掘した狩野亨吉の父である。
やがて松陰は夜陰に紛れてペリーの黒船に乗り込んだが、疥癬を理由に拒否・下船させられている。もし渡米が実現していたら、いとも簡単に攘夷思想を捨て、エキセントリックな脱亜入欧主義者になっていただろう。
松陰は軽薄なほど純粋で(単純で)激情家だったから、それだけ他人の影響を受けやすい性癖であった。彼の行動はいつも無計画で子供じみていた。
嘉永年間、彼は何度か水戸に会澤正志斎を訪ね、その謦咳に接している。水戸の「尊皇攘夷」は当然倒幕とは正反対の論理である。幕府が尊皇なのだから、各藩もそれに倣って尊皇であるべきで、尊皇すなわち幕藩体制への忠順なのだ。
当時、松陰は会澤正志斎のこの論理を信奉していた。つまり「尊皇攘夷の佐幕派」だったのだ。やがて松陰は一向宗の旅の僧侶・黙霖に手紙で議論をふっかけられ、完膚無きまで議論に負けた。やがて黙霖の思想に完全に染まってしまう。それは「尊皇攘夷の倒幕派」の論理である。松陰は正志斎と決別する。
この一向宗の坊主黙霖の影響を受けて後、松陰は死を賭けて長州藩を倒幕に立たせようとした。京から公卿の大原重徳を招き藩主と倒幕挙兵の合議を画策し、京の伏見の獄を襲って囚われの身の梅田雲浜を救出するよう門人たちに命令を出し、同志を募り京にいる老中・間部詮勝の暗殺を謀り、藩主が参勤交代で江戸に行くことを止めようとした。
松陰が再び萩の牢に閉じこめられたのは、老中暗殺計画の支援を家老に求めたためである。驚いた家老や藩主は、この危険極まりない気違いを、獄に入れておくことにした。
松陰の軽薄極まりない行動は、門人の高杉晋作や久坂玄瑞らにもたしなめられた。「義旗一挙、実に容易ならざる事にて、却って社稷(しゃしょく)の害を生ること必然の儀に御座候」…先生の軽挙妄動はかえって国家や朝廷の害になってしまいますのでお慎み下さい、と言われたのだ。
松陰には人を惹きつけてやまぬ純粋性があったのだろう。松陰の発したカリスマ性を考えれば、彼が全く発展性のない朱子学と偏見に満ちた国学で、世界的視野を欠いた時代錯誤にのめり込んだことは、実に近代日本の不幸であったというべきだろう。
卓三郎のことである。彼がウィグローの下でローマ・カトリックの宗理を学んだのは、わずか十ヶ月に満たない。彼の関心は信仰より、その教理・教義を極めることだったのかも知れない。明治十年二月から、彼は福田理軒(※2)の下で数学を学んでいるが、これもわずか五ヶ月で終わった。
(※2)福田理軒は大坂で和算と天文暦学、測量技術を教える順天堂塾を開いていた。この塾は土御門家と関係深く、維新後は政府に出仕して暦の編纂に携わった。維新政府が太陽暦に改暦すると職を辞し、順天求合社という塾を経営し、ここで数学と測量技術を教えていた。
卓三郎は福田理軒の順天求合社を去って後、横浜山手でプロテスタント派メソジストのアメリカ人マクレーの下で、プロテスタントの教義を学び始めた。かつての信仰の同志であった加茂川佐助や半田盛保が上京し、信者仲間の百々順治を訪ねると、そこに卓三郎がいた。二人はきつく彼の変節を詰問したが、卓三郎は「尚異説を主張」したと言う。この後彼らは絶交している。
卓三郎はローマ・カトリックのウィグローや福田理軒、プロテスタントのマクレーの下に通いながら、西多摩郡日の出町の大久野東学校、秋川の開明学舎や、小田原の学校で助教をしていたようである。小田原暮らしは半年くらいだったようだ。また永沼織之丞から紹介されたジョン・バラに漢学や漢詩を教授し、彼はジョン・バラから英語を学んでいる。
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