芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

童謡の時代 〜掌説うためいろ余話〜

2016年07月26日 | エッセイ
                                                            

 弘田龍太郎は高知県安芸郡土居村(安芸市)に、教育者の父・正郎、母・総野(房野)の間に生まれている。母の総野は一絃琴の名手であったという。龍太郎が3歳のとき、一家は父の転勤で高知を離れている。彼が7歳のとき正郎が千葉県立師範学校校長に赴任し、龍太郎はその付属小学校に入学した。
 10歳のとき父が三重県立第一中学校校長となり、一家は津に転居した。龍太郎も第一中学校に入学した。
 彼はいつも母の一絃琴を聴き、また演奏法を教わりもしたであろう。その母の影響にちがいなく、音楽好きで、やがてその道に進むことを決意した。その後、彼は東京音楽学校のピアノ科に入学した。このとき指導に当たっていたのが助教授の本居長世である。また中山晋平も長世の教え子であった。

 龍太郎はその学生時代に文部省唱歌「鯉のぼり」(甍の波と雲の波…・大正2年)を作曲したとされる。もちろん文部省唱歌は編纂委員の合議制とされ、著作権は文部省にあり、作詞・作曲者不詳とされる。別歌の「こいのぼり」(屋根より高いこいのぼり…・昭和6年)は、後年、近藤宮子という少女が「コヒノボリ」の作詞者とされたが、作曲者は不詳のままである。
「甍の波と雲の波…」の「鯉のぼり」に関しては、龍太郎自身がサトウハチローに「あれは僕が作曲した」と打ち明けている。しかしあの雄勁な詩の作詞者は不詳のままである。
 龍太郎はピアノ科から研究科に移った。卒業後も母校に残り講師をしていたが、作曲部が新設されるとそこに再入学した。
 そのまま助教授も務め、師の本居長世や筝曲の宮城道雄と共に新日本音楽運動に参加した。彼らは日本舞踊に洋風伴奏を取り入れたり、邦楽と洋楽の融合を図ろうとしたのである。幼い頃から母の総野の一絃琴を聴いて育った龍太郎である。邦楽と洋楽の融合は楽しかったにちがいない。
 また、龍太郎は鈴木三重吉の「赤い鳥」にも参加した。成田為三たちと共に北原白秋、西条八十らの詩人たちと組み、その詩に曲を付けた。ちなみに白秋の「雨」は為三と龍太郎が曲を付けたが、今もよく歌われているのは龍太郎の曲である。

   雨がふります 雨がふる
   遊びにゆきたし 傘はなし
   紅緒の木履(かっこ)も緒が切れた

   雨がふります 雨がふる
   いやでもお家で 遊びましょう
   千代紙おりましょう たたみましょう

   雨がふります 雨がふる
   けんけん小雉子(こきじ)が 今啼いた 
   小雉子も寒かろ 寂しかろ

   雨がふります 雨がふる
   お人形寝かせど まだ止まぬ
   お線香花火も みな焚いた
   
   雨がふります 雨がふる
   昼もふるふる 夜もふる
   雨がふります 雨がふる

「赤い鳥」をきっかけにした、この時代の作曲家、詩人たちの活動と交遊は素晴らしい。成田為三とその恩師の山田耕筰、そして中山晋平とその師・本居長世、中山晋平の教え子の草川信などの輪が次々と広がり、優れた詩人たちの詩に優れた童謡を作曲していった。
 斎藤佐次郎と野口雨情の「金の船」(後「金の星」)に作曲家として参加した中山晋平は、斎藤や雨情に本居長世を紹介した。こうして野口雨情と本居長世の名コンビが誕生した。二人の最初の童謡は「十五夜お月さん」である。やがて「金の星」に弘田龍太郎や草川信も参加していく。

 清水かつらは京華商業学校の予科を卒業し、青年会館英語学校に進み、その後に中西屋書店(後に丸善に吸収併合)の出版部に入社した。中西屋が小学新報社を設立するとそこに移り、少年時代からの児童文学の恩人・鹿島鳴秋が編集責任者の「少女号」「幼女号」等の編集者となった。鹿島鳴秋は清水かつらに童謡向けの作詞を勧めた。
 龍太郎はこの小学新報社の鹿島鳴秋や清水かつら等とも親しくなった。こうして、鹿島鳴秋作詞の「浜千鳥」や、清水かつら作詞「靴が鳴る」が生まれた。さらに清水かつらとのコンビから「叱られて」「あした」「雀の学校」などの名曲が次々と生まれていった。
 よく「叱られて」は、幼くして母と生き別れた清水かつらの、母を恋う切なさが出ているという解説があるが、私にはどうも違うように思われる。
「叱られて」に描かれた風景は、継母の実家がある新倉村(現在の和光市)周辺を描写したものあろう。広い田畠に武蔵野の雑木林や竹林が点在し、昼はのどかでも夕暮れるとうら寂しい。人家も遠く疎らだった。その先の昼も鬱蒼とした神社の森は、もう真っ暗で怖かろう。
 この二人の子は、家の事情で子守働きに出されていたか、幼い弟妹の面倒を見なければならなかったのだ。しかし何かで叱られ、町にお使いに出されたのだろう。帰り道はとっぷりと暮れた。怖い、寂しい、辛い、悲しい、心細い…。
 年の離れた幼い弟たちの面倒を見てきた清水かつらにとって、彼らのあどけなさ、その幼い挙措、あるいは上の子が背伸びして大人びる、その一挙手一投足が愛おしかったにちがいない。関東大震災で本郷の家を失い、継母の郷里に身を寄せ、彼の後半生をその地で暮らした。かつらにとって、周辺の風景と弟たちの素描が詩になったと思われるのだ。幼い弟たちは「雀の学校」のように、かしましく愛らしい。その手は「みどりのそよ風」(草川信作曲)に描かれたように小さく愛らしい。

 昭和3年、龍太郎は文部省から在外研究生としてドイツ留学を命じられた。ベルリン大学で作曲とピアノを学び、帰国後に東京音楽学校の教授に任命された。しかしほどなく作曲活動に専念するためにその職を辞した。
 彼は生涯に千数百もの曲を作った。島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」「千曲川旅情の歌」に曲を付け、この歌曲はNHKラジオで全国に広められた。
 また新潟県糸魚川の故郷で、良寛さんのような暮らしをしていた相馬御風が孫娘の文子を描いた「春よ来い」に曲を付けた。

  春よ来い 早く来い 
  あるきはじめた みいちゃんが 
  赤い鼻緒の じょじょ(草履)はいて 
  おんもへ出たいと 待っている 

  春よ来い 早く来い
  おうちのまえの 桃の木の
  つぼみもみんな ふくらんで
  はよ咲きたいと 待っている

 危なげに歩き始めたばかりの幼女は、草履を「ぞうり」と言えず、まだ「じょーり」ともうまく言えず、玄関のたたきにある幼女の小さな草履を指差し「じょ、じょー」と言ったのだろう。そして玄関の硝子戸の外を指差し「おんも、おんも」と言ったのだろう。
 相馬御風と同じように、龍太郎も良寛さんの暮らしぶりに憧れていたのではないか。良寛さんのように、子どもたちと遊びたかったにちがいない。龍太郎は晩年に、長女夫妻が創立した幼稚園の園長となって、幼児たちの音楽指導に当たった。
 龍太郎はドイツ留学期間を除き、ずっと東京に暮らした。彼は東京音楽学校のある上野界隈、谷中、根津、千駄木界隈の下町の風情や、本郷界隈を好んでいたらしい。
 昭和27年に文京区本郷の自宅で亡くなり、台東区谷中の全生庵に眠っている。この全生庵は山岡鉄舟が、佐幕派も倒幕派も関係なく、幕末から明治維新の際に倒れた人たちを弔うために建立した臨済宗宗国泰寺派の寺院である。
 むろん鉄舟もここに眠り、三遊亭圓朝の墓もある。この寺には圓朝が所蔵していた菊池容斎、松本楓湖、伊藤春雨、河鍋暁斎などの幽霊画を引き継ぎ所蔵しているという。間もなく圓朝忌(8月11日)であるが、このときに一般公開されるという。

高畑勲さんが語る懸念

2016年07月25日 | 言葉
                                                                  
日本人のズルズル体質

70年前の戦争について
 いやいや戦争に協力させられたのだと思っている人も多いけれど、大多数が戦勝を祝うちょうちん行列に進んで参加した。非国民という言葉は、一般人が自分たちに同調しない一般人に向けて使った言葉です。
「空気を読む」と若者が言うでしょう。私はこの言葉を聞いて絶望的な気持ちになります。私たち日本人は昔と全然変わっていないんじゃないか、と。
 周りと協調することは良いことですが、この言葉は協調ではなくて同調を求めるものです。歩調を合わせることが絶対の価値になっている。…


 古くからあるこの体質によって日本は泥沼の戦争に踏み込んでいったのです。私はこれを「ズルズル体質」と呼んでいますが、「空気を読む」なんて聞くと、これからもそうなる危うさを感じずにはいられません。


国家というもの…

2016年07月24日 | エッセイ
                                                        

 福田定一は、ノモンハン事件を生き延びた兵士や先輩将校から、ソ連の強大な機械化兵団の機能性の高い重戦車と、日本の戦車の比較を聞いた。完膚なきまでに叩きのめされた話を聞いた。彼の配属された戦車はその時の戦車と同型である。改良も進歩もない。この狭い戦車の中で、装甲を貫かれて肉片が四散し、あるいは丸焼きにされて死ぬのだろう。彼はその死をまざまざと意識した。 
 福田定一陸軍少尉は、戦車隊の小隊長として栃木県佐野に配属され、来るべき本土決戦の日に備えて待機していた。 
 敗色いよいよ濃い。米軍は千葉や常陸の海岸に上陸して来るに違いない。そうするとたくさんの避難民が大きな荷物を抱え、大八車やリヤカーに家財道具や幼な子を乗せて、道路という道路に溢れながら内陸に殺到するだろう。米軍を迎え撃つために出撃する戦車隊は、進むことも困難な状況になるだろう。福田定一小隊長は「その場合、どうしますか?」と大本営からやってきた参謀の上官に尋ねた。上官は「轢き殺して行け!」と言った。これが戦争をする国の狂気、当時の日本という国家の正体だった。国家も軍隊も国民を守るために存在しているのではなかった。
「日本とはこんなに愚かな国だったのか」…福田定一はこの問いを続け、作家・司馬遼太郎となった。
 国家というもの、特に戦争を始めた国家というものは、国民を守ることはしないのだ。

 日本という国は、この狂気の戦争の責任を、真に誰も取らず、従って反省もせず、戦争の起因や責任の所在を検証もしなかった。その検証に必要となる証拠の焼却を謀ったのである。
「…市ヶ谷方面を望むと、何やら大火事になったかと思われるほどの煙がもうもうと空に立ち込めている。それは途絶えることなく、夜になっても暗天を焦がすように次から次へと立ち上っていた」
 敗戦である。やがて戦勝国による戦争裁判が行われる。日本陸軍、大本営は戦前戦中の膨大な機密文書、作戦文書、明らかになるとまずい証拠文書の隠滅作業を行っていたのである。この後遺症はいまだに続き、日本は無責任国家のままである。また一部の強硬な保守派の人々は、「証拠となる文書がない」のだから「事実はない」と言うのである。
 国家というものは、後々責任を追及されそうな不都合なものを、焼却してでも隠そうとするものなのである。
 さて、終戦間際、関東軍はその家族を先に逃がし、次に軍属とともにさっさと逃げた。ソ連軍の最前線に取り残されたのは、急遽応召された開拓団の青少年、中年兵(老兵である)などである。彼らはたちまち捕虜となった。
 関東軍参謀の中佐・瀬島龍三作戦主任は「どうぞその捕虜たちは貴国の北方開拓の労働力としてお使いください」とソ連と密約したという。そのため捕虜たちはシベリアに抑留されたのである。戦後、本人は密約を否定しているが、公開されたソ連側の資料などから推察するに、それは事実であったろう。
 後に彼は中曽根首相のブレーンとして隠然たる力を持ち、また第一次安倍首相のブレーンも務めた。瀬島のように権力に取り入るのが上手い奴らが、権力を利用し、権力を握るのである。

 ノモンハン事件が起こる前年、大陸侵略を続ける祖国に、たった一人で抵抗し抗議した女性がいた。彼女はそのため売国奴と呼ばれた。しかし彼女は昂然と言った。

「お望みならば、私を売国奴と呼んでくださってもけっこうです。決して恐れません。他国を侵略するばかりか、罪のない難民の上にこの世の地獄を平然と作り出している人たちと同じ国民に属していることの方を、私は大きい恥としています。ほんとうの愛国心は人類の進歩と対立するものでは決してありません。そうでなければ排外主義です。しかし、なんと多くの排外主義者がこの戦争によって日本に生まれたことでしょうか」

 なんと勇気のある強い女性であろうか。なんと強い反逆者であろうか。長谷川テル(照子)、筆名は緑川英子というエスペランティストであった。エスペラントを世界の公用語として、エスペラントで世界の平和を訴え、反戦活動をしようとした。
 長谷川テルは山梨県大月の生まれである。「日本における婦人の状態」を書いた。満州国からの留学生・劉仁と恋愛結婚し、大陸の広州に渡り、エスペラントの翻訳と抗日運動に参加した。彼女は日本のファシズムを憎み、日本の兵士もまたその犠牲者であると考えていた。
 テルは運動のさなかに、6歳の男児と生後10ヶ月の女児を残して死去し、その後すぐに夫も亡くなった。二人の遺児は孤児院で育ち、テルを尊敬する人々に支えられ高等教育を受け、後に兄妹ともに日本の大学に留学した。兄は日本の大学で講師もした。
 長谷川テルは日中合作ドラマ「望郷の星」となり、テルを栗原小巻が演じた。
テルの娘・長谷川暁子は「二つの粗国の狭間に生きる」を書き、平和を訴えている。
 ちなみに吉永小百合の母と叔母の評論家・川田泰代は、長谷川テルの遠縁に当たるという。

        

最初は素人

2016年07月23日 | エッセイ
 私がイベント・広告業界に紛れ込んだ のは実にいい加減なことからである。新聞の求人欄で、あまりない珍しい社名を見かけた。オフィス25時という のである。「委細面談」とある。高田馬場にある手塚治虫の「虫プロ」に近いマンションの一室で、委細面談の直後にそこの社員となった。
 私は芸能人、芸能界についてはほとんど知識がない。最初の仕事は仕事とも呼べぬもので、目の前に山と積み上げられた女性週刊誌を読むことである。およそ一週間ばかりを朝から晩まで、「セブンティーン」「女性自身」「明星」「平凡」「女性セブン」「微笑」など、あくびをこらえることもなく読み、眺めて過ごした。また先輩(私よりずっと年の若い女の子である)の電話の受け答え方や、使用される用語を学んだ。
 次に上司から命じられた仕事は、広告に起用するタレントのリストアップである。クライアント名、商品、ターゲット、予算を告げられ、日本タレント名鑑と、芸能界の電話帳である連合通信社の赤本、青本を手渡された。リストアップが済むと、上司はその中から何人かに印を付け「当たれ」と言う。 
 タレントの所属事務所に電話を入れると、デスクから担当マネージャーへ、さらにCMに関しての担当重役や社長に回され、彼等から矢継ぎ早に質問を受けた。こちらは無論シドロモドロである。その時、事務所にはデスクという担当があることを知った。コンセプトやオール媒体、クールという言葉を初めて 知った。タレント事務所のCM担当専務や社長から、企画書(コンセプト)、絵コンテを持っての来社を求められた。絵コンテなるものの必要も知った。上司に報告すると「そんなものはまだない。とにかく交渉に行ってこい」と命じられた。私は書店に走り、広告用語事典やテレビ用語事典、CM制作や絵コンテ の描き方などの本を求め、その夜それらを参考にしながら、自ら勝手にCMコンセプトとコピーを書き、絵コンテを描き、約束の日時にタレント事務所に持参し た。こうして素人の私が、広告業界と芸能界に足を踏み入れたのである。後に、嫌と言うほどブッキングや、企画書づくりとコンセプトワークに携わることになった。

 私はほどなく舞台イベントの最初の仕事を命じられた。台本を渡され「おまえは下手(しもて)づきだ。本をよく読んでおけ」と言われた。…「シ・モ・テぇ…?」ってなものである。
 全盛期の佐良直美のコンサートである。会場は札幌の厚生年金会館、二千数百人収容の大ホールであった。初めて上手(かみて)と下手を覚えた。大道 具は東宝 舞台で、照明も東宝の人であった。打ち合わせや現場で、初めて聞く用語に戸惑った。バトン、綱元、わらう、鏡前、板付、八百屋、蹴込み、幅木、大黒(おおぐろ)、中割、袖幕(見切幕)、ジョーゼット、ホリ、灯体、ピン、1ベル2ベル、 MC、かげアナ、暗転、F.O、F.I、ルミチューブ、ピアノのピッチ、オケピ、ころがし、おべた、ゲネ(ゲネプロ)、ドレスリハ、地がすり、箱馬、山台、場みり、切り出し、人形脚、しず、一文字、切り文字、なぐり、キャットウォーク等々である。「M2終わって暗転、◯◯を下手にわらって」「笑 え~? アハ、アハハハはァ??」ってなものである。
…こうして素人の私が、舞台や音楽業界に足を踏み入れたのである。その後、嫌というほど進行台本を書き、イベントのマニュアルを制作することになった。
 次のコンサートは宝塚出身のの歌手・堀内美紀のディナーショーで、おぼろげな記憶だが、ところは日光の有名老舗ホテルだったか。
 やがて私は、アイドル歌手、ジャズ、 演歌、クラシック、ロック、フォーク、ボサノバ、シャンソン、伝統音楽、民族音楽等とあらゆるジャンルの音楽イベントに関わることになった。
 最初は誰もが素人だった、という話である。


大山朝常さんの遺言

2016年07月22日 | 言葉
 いろいろな方々の「言葉」を、このブログで紹介し続けている。今日は大山朝常さんの「沖縄独立宣言」から、彼の血を吐くような最後の言葉を紹介したいと思ったが、それを数行にするのは無理と知った。それで、抜粋しつつ、かなり長めの引用となった。
 できれば彼の「沖縄独立宣言」を手に取り、お読みいただきたい。


                  


 沖縄戦でおびただしい血を流したうえ、戦後は米軍の占領下で塗炭の苦しみを味わってきたのが沖縄人です。その苦しみから抜け出る唯一の道として、私たちが願ったのが「日本復帰」でした。
 ご承知のように、日本は「平和憲法」をかかげて、戦後、再建の第一歩をしるしました。「戦争を放棄し、武力を保有しない」と宣言した日本本土は、戦後もなお米軍の準戦時体制にあった沖縄にとって、“帰るべき平和な祖国”そのものでした。その祈るような願いを込めた対日講和条約でしたが、願いは断ち切られ、沖縄だけが米軍支配下にとり残されました。
 その「屈辱の日」から、「平和憲法下日本への復帰」は単なる願いを超えて、積極的な運動に高まっていきました。

 復帰後、…広大な沖縄の基地はそのまま存続し、「核つき」の疑惑は消えず、そこへ本土自衛隊が配備されました。基地からの脱却どころか、一層の強化に過ぎません。
   …
 沖縄人があれほど「祖国復帰」を願ったのは、「平和憲法の日本に復帰」することで、「核も基地もない平和で豊かな沖縄」を回復したいという切実な思いの故です。ところが、その思いは日本政府によってまったく無視され、「日米安保体制への復帰」にすりかえられていたのです。しかも、本土法の適用によって、沖縄の自治体としての権利すら奪われました。いわば日本への隷属です。
 … 歴史的に見れば、むしろ「第三の琉球処分」と呼ぶべきです。明治十二年の琉球処分に続き、昭和二十六年の対日講和条約における沖縄切り捨てが第二の琉球処分、そしてこの復帰という名のもとに行われた日本政府による沖縄支配は、まさに第三の琉球処分そのものです。…
 私たちが悲願をこめて「祖国復帰」と呼んだ運動は、本土では「沖縄返還」と呼ばれていたことに、すでに今日の悲劇の根がひそんでいました。
 … 自分の手元に戻ってきた沖縄に、日本政府は安全保障や事実上の重要性を理由に特別な役割を負わせました。沖縄を、日米安保体制のタテにしたのです。

 沖縄は日本ではない。沖縄人は日本人でない … ひたすら日本を祖国と仰ぎ見て、日本人であろうとして耐えつづけたことが、逆に沖縄戦をはじめとする多くの悲劇を招いてきたのではないでしょうか。私にはそう思えてなりません。

             

      併せて竹中労氏の「琉球王国 汝花を武器とせよ」もお薦めする。