元伊勢繋がりで今回紹介したいのは、倭笠縫邑 (やまとかさぬいのむら)の伝承地 奈良県桜井市三輪に鎮座する三輪神社の摂社 檜原神社と末社 豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや) です。
檜原神社へは、JR桜井線 三輪駅から大神神社経由で山辺の道を行くルートと巻向駅より箸墓古墳を経由して行くルートがあります。
我々は、巻向駅より箸墓古墳~ホケノ山古墳を訪れ檜原神社へと行くルートを選択しました。
大神駅からですと、山辺の道を行き檜原神社から戻って帰って来るルートとなりますので、電車で訪れるなら巻向駅からのルートをお勧めします。
マップ上では、巻向駅より檜原神社まで2キロほどで、ゆっくり箸墓古墳、ホケノ山古墳を見学して歩くのも当時を偲びながら散策が出来ますのでお勧めです。
檜原神社への参道は、坂道となりますが、途中休憩所もありそんなにキツくはありませんのでゆっくり散策しながら訪れることが出来ます。
奈良盆地の西 二上山が正面に見えます。
左の社殿が豊鍬入姫宮で、三つ鳥居(三輪鳥居)を介し三輪山を拝する方が檜原神社となります。
白砂が辺り一面に敷き詰められ砂紋が彩を添え美しい景観を造っています。
豊鍬入姫宮案内(写真クリックで拡大)
檜原神社 三つ鳥居 社殿はありません。鳥居を介して続く三輪山自体を拝する古代祭祀の原型の神社となります。
祭祀:天照大神若御魂神
配祀:伊弉諾尊 伊弉冊尊
由緒:
大神神社摂社檜原神社は、天照大神(当社では天照大神若御魂神と申し上げ三ッ鳥居の中にある神籬に奉齋)を、末社豊鍬入姫宮(向って左の神殿)は崇神天皇の皇女豊鍬入姫命をお祀りいたして居ります。
皇祖 天照大神(神璽の八咫鏡)と草薙剣は大神神社の御神体山三輪山の麓に磯城瑞垣宮(しきみずがきのみや)を営まれた第十代崇神天皇の御代まで天照大神の宝鏡奉斎の御神勅の随に宮中(天皇の宮殿)にて「同床共殿」にてお祀りせられて居りました。
崇神天皇の御代のはじめ、国内に疫病多く国民の大半に及び、また流離(さすらい)背叛する者あり国情真に容易ならぬ状勢となり、天皇は大変憂慮せられ、朝夕に神祇に只管(ひたすら)ご祈念されましたが、国情は益々由々しくなる様相に、 天皇はついに、神の勢(御神威)を畏れられ、御即位六年はじめて皇女豊鍬入姫命(初代齋王・御杖代)に神璽を託されて、「倭笠縫邑」に「磯城神籬」を立ててお祀りせられました。 その神蹟が三輪山の北麓にある檜原神社の地であります。
豊鍬入姫命は大神の御杖代としてこの地に三十三年間朝夕奉仕せられました。更に大神の御心に叶う相応しい鎮座地を求めて、 丹波の吉佐宮、大和の伊豆加志本宮、紀伊の奈久佐浜宮、吉備の名方浜宮の四箇所を経て、この檜原の地に戻って来られ、 この期間が二十一年間でありました。 そして第十一代垂仁天皇の御代、大神は豊鍬入姫命より御杖代をご継承された倭姫命(垂仁天皇皇女)により伊勢の五十鈴の川上(現在の伊勢神宮内宮)に御遷幸の後も、 この御蹟を尊崇し檜原神社として大神を引続きお祀りいたして参りました。よって此の地を「元伊勢」と今に伝えております。桧原神社は又日原社とも称し、古来社頭の規模など、本社大神神社に同じく、 禁足地とし三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。萬葉集には「三輪の檜原」とうたわれ、山の辺の道の歌枕となり、西につづく桧原台地は、 大和国中を一望にする景勝の地であり麓の大字茅原、芝(旧岩田村)には「笠縫」の古称があり、また崇神紀の「神浅茅原(かんあさちはら)」に因む「茅原」の地名があります。
大字箸中は皇女豊鍬入婿命の御墓と伝える「ホケノ山(古鏡出土)」又西方の旧県道には、当社の道しるべ「環緒塚(おだまきづか):伊勢学の大家、神宮禰宜御巫清直(みかんなぎきよなお)の書と伝える」があります。(こちらより転載)
【参考】
檜原神社より西へ1キロほど行った場所にある皇女豊鍬入婿命の御墓と伝えるホケノ山古墳
現地案内(写真クリックで拡大)
ホケノ山古墳より仰ぐ三輪山
(撮影:2012-1)
お断り:2012年当時の情報となります。当時とは異なる事が想定されますので訪れる際には、事前に調べて頂き記事は参考程度とお考え下さい。
お断り:2012年当時の情報となります。当時とは異なる事が想定されますので訪れる際には、事前に調べて頂き記事は参考程度とお考え下さい。
【マップ】
飛鳥の石造物文化はミステリアスな部分も多く惹かれます。
山辺の道も3度ほど訪れていますが、日本の神話の舞台と高台から見下ろす奈良盆地の大和三山の景観が古代の原風景を思い起こさせてくれて、素敵な場所です。是非また京都とセットで訪れて見たいです。
檜原神社の三つ鳥居。黒の鳥居が珍しいです。鳥居の前はきれいに掃き清められてます。枯山水の庭のようです。
奈良は石舞台など古代祭祀のイメージがあります。
奈良もいいですね。