源義経は、衣川の戦い(岩手県西磐井郡平泉町)で、自害したと史実は伝えています。
しかしここ北海道沙流郡平取(びらとり)町の伝説には
「実は衣川の戦いで戦っていたのは義経の影武者であって、義経公は北へ向かい幾多の困難を乗り越え蝦夷地に辿り着いていた。蝦夷地では先住民族のアイヌの人々に武術や農耕を教え、ハンガンカムイと呼ばれる英雄となっていた。」
と、語られています。
義経神社周辺は、自然豊かな義経公園として整備され町内の憩いの場所となっています。
参道
義經神社拝殿
幣殿より本殿を望む
立派な入母屋造りの拝殿と本殿 社殿から煙突が出ているのも北海道ならでは
祭祀:ハンガンカムイ義經公(源九郎判官義經公(みなもとのくろうはんがんよしつねこう))
由緒:江戸時代の末期、北方調査(北海道)の折り、この地を訪れた幕府巡検使 だった近藤重蔵翁は、コタンのリーダーと交流をもち、何か心に残ることがあったのでしょう、江戸に帰り神田の仏師に木像を作らせ、翌1799年この地に御神像として贈ります。これを受けたコタンのリーダーはアイヌには無い風習に戸惑いながらも、重蔵翁から贈られたこの御神像を聖地ハヨピラ(神社の丘づたい東方)に安置しました。これが義經神社創建の起源となります。(こちらより引用)
源義経公御神像(寛永11年(1799)アイヌの義経崇敬を知った幕府巡検使 近藤茂蔵が寄進)写真:カムイ義経 平取町義経を語る会刊(2001)より転載
静御前・常盤御前石碑
常盤御前・静御前 解説板
さざれ石
義経公北之方傳記//越後国頸域郡上輪村亀割山
衣川の戦いからわずか7か月後に「義経」を名乗る者が現れ、室町時代に入ると義経に関する多くの「不死伝説」が登場し、江戸時代に入ると多くの作品に「義経北行伝説」が登場するようになった 。この「義経公北之方傳記」もその中の一書で「義経は1189年の衣川の戦いでは幸いにも難を逃れて一路北に向かって蝦夷地に逃げたとされ、その子孫は蝦夷地で繁栄した」ことが記されている。(解説文:こちらより引用)
北海道に多く残る義経伝説には、以下のような物があります。
- アイヌの娘と義経が恋仲になった説
- 財宝を埋めたという黄金伝説
- 義経がアイヌ秘法の巻物を盗んだと言う説
- 弁慶たちの隠れ里伝説
- 義経=成吉思汗(ジンギスカン)説
これらの伝説は元々あったアイヌの英雄伝説を作り変えたとも言われていて、和人がアイヌの人々を支配するための政策の一環だったのではないかともされています。
義経といえば、天才武将、軍略が得意というイメージでしたが、アイヌの民たちと交流したりカムイとして崇敬され祀られたり。
北海道へ渡った後のイメージはかなり我々が抱いていた義経とは異なります。それは、アイヌの英雄伝説に置き換えられた義経像だからではないでしょうか?
レアなこんなものも 限定ものでしょうから既に販売終了となっているでしょう。
お断り:2004年当時の情報となります。当時とは異なる事が想定されますので、訪れる際には、事前に調べて頂き記事は参考程度とお考え下さい。
(訪問:2004年8月)
参考文献:カムイ義経 平取町義経を語る会刊(2001)
《☞北海道調査旅行 その4》へ続きます。
【マップ】
最後に勝利し幕府を開いた頼朝公が打ち漏らす事は考えられません。しかし、判官びいきでないですが、多くの人々が悲劇の武将に惹かれこのような伝説がうまれたのでしょうね。うちの近くにも義経公が東北に落ち延びて行く時の伝説があります。
同じ一族の義仲公や範頼公については、この手の話は聞きません。
義経公が北へ落ち延びて行ったという伝説をたどる旅もいいですね。北海道に行く機会あったら
寄ってみたいです。
そうですね。義経の武勇伝が後世に語られ創作されていったのでしょうね。
しかし、北海道には関連史跡が多いですよね。義経の足跡を求め旅されている方もいらっしゃるようです。
神社に併設されている資料館へ行くとたくさんの資料が展示されているのですが、紹介した書籍もそうですが、なかなか興味深い資料が揃っていて見ごたえがあります。