今回の佐久市巨石探訪へのルート確認をしていた際に、ふと目に止まった「五稜郭」の文字。五稜郭と言えば歴史が大きく変わった舞台として有名な函館の五稜郭しか知りませんでしたが、まさか佐久市にもあった事は初めて知り興味が先行し訪れて見る事にしたのでした。
まずは、併設されている「五稜郭であいの館」で歴史的な背景を学びました。
五稜郭ジオラマ
展示資料室内 龍岡城は、長野県佐久市田口にあった日本の城で、幕末期に築城されました。
🔳歴史背景:
- 龍岡藩(田野口藩)は1万6千石の小藩で、城主の格式は認められておらず城は厳密には田野口陣屋で藩庁として使用されていました。
- 11代の藩主、松平乗謨(のりかた)は幕末激動の情勢に応じて、信州に本拠を移すことを計画し、文久3年(1863)に陣屋を置いていた田野口の地に新陣屋建設を決定しました。
- 乗謨は学才・識見にすぐれ、陣屋建設にあたってはフランスのヴォーバン将軍が考案したとされる稜堡式築城法を採用し、築造されたのが龍岡城です。
🔳特徴的な造り:
- 龍岡城が出来上がったのは、函館五稜郭の完成(1864年)から3年後で総面積は約2万75坪で、五稜郭に比べ規模は約半分
- 龍岡城は、フランスのボーヴァン将軍が考案した稜堡式築城法に習い築かれました。(ただし、築城に当たっては場所の選定やその防御規模から「フランス人技術者の関与はなかっただろう。」というのが大方の見解だそうです。 )
- 突角部に砲座を設け、各稜堡から十字砲火をもって攻防することを目的としています。(実際は、西南角に一基しか置かれなかったとのこと )
- 周囲の山から砲弾が届く距離であり軍事施設としては問題を抱えており、稜堡式の外見は乗謨の西洋築城術に対する学問的興味が高じたものであって、(実戦に備えた要塞としてではなく)あくまでも藩主居館として設計されたものと評されているようです。
- 石材が成形された切込接(きりこみはぎ)の石垣が印象的で、函館の五稜郭と同じ「はね出しの石垣」も幕末に積まれた石垣の特徴です。
🔳現在の状況:
- 廃藩後の明治5年(1872)に城は取り壊されましたが、濠と土塁、建物の一部である「お台所」が城内に残されています。
- 昭和9年(1934)5月1日に国史跡として指定され、平成29年には続日本100名城に選定されました。
- 龍岡城は、日本に二つしかない星形の稜堡を持つ洋式城郭であり、その歴史的な価値と特異な築城様式が注目されています。
(MS Cpilotにて要約し加筆)
龍岡城五稜郭案内
出展:Googleマップ
龍岡城跡
小学校の校庭として使われていました。(現在は廃校)
廃城後は城内のほとんどが農地転用されてしまいましたが遺構のなかで唯一残されたのがこの「御台所」でした。移築して今に伝えています。
御台所内部(内部は、普段非公開(要事前申し込み) たまたまいらしたグループに便乗して外から拝観させて頂きました。)
田口招魂社 北越戦争、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争の英霊を祀っています。
「切込接」と「はね出し工法」で積まれた特徴的な石垣(一部だけで未完成の様です)
であい館前にあった巨石 どうしてもやはり石に反応してしまう困った性格です。(^^; 新海三社神社にあった「御休石」の組成と同じに見えます。
【ついでに】
佐久市出身で、北斗の拳の漫画原作者、武論尊氏書下ろしのデザインマンホールが市内に北斗七星の位置に設置されているそうです。
出展:佐久市下水道局
(撮影:2024-6)
【マップ】
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