音楽にとって、ことばがさほど重要でないと思うことは多いものだし、その本質を決議する議会などというものが仮にあったら、ことばなんぞは与党の与党であるに違いない。そこでことばさえわかれば、何かがわかったなどと言う気はさらさらなく、そうではなくて、新しいことを始める人は、それを始めるにあたって何らかのnotionっていうんですかね、「こういうつもり」っていうのがあって、それが本人にはことばでわかっていない場合も多々あるし、本人にしたってだんだんにわかってくることもあるし、あとづけで呼ばれることもある、その「こういうつもり」はキーワードになりやすいってこと。
それにしても、モーダルインターチェンジとサブモーダルチェンジ?
これはついでに人間の情報処理の特質であって、コンピュータはひとつひとつ検証することで解を得るわけだけれども、ほら、羽生名人でも有名になったように、人の場合はまず直観で「これっ」って手を思いつく。長考は、その検証作業である。っていう、あれです。その「これ」はまだ世の中にない時は、ふにゃふにゃしたカタチなわけだけれども、存在してしまうと、「これ」とは何かが、どういうわけかだんだんはっきりしていき、社会的に共有されていく、というプロセスを辿るのがブンカの常なのだ。
さてそこで、まずは「サブモーダルチェンジ」のほうなのだが、これは、「脳関係」、まさに神経(ニューロン)の方角の用語であるらしい。気分(モード)が(がらりと)変わるという点では「モーダルインターチェンジ」と同じだが、それ以外には、神経と音楽とで特に共通点はなく、それぞれに難しい説明が続く。
で、そのモーダルって何なのか?
とクラシックイタチは、そっちへ疑問の矛先が向かうのであります。
いや、これほんとに今まで知らなかったのですが、マイルス・デイビスの「モードジャズ」って英語表記すると「modal jazz」なんですって。
Modal jazz is jazz that uses musical modes rather than chord progressions as a harmonic framework.(wikipediaより)
この音楽で使う「mode」は、「旋法」と訳されるようなのだが、そもそもは西洋音楽の伝統のなかであるスペースを占めるのが「教会旋法」、すなわちグレゴリア聖歌のことである。このグレゴリア聖歌が「ふかい感動をきざみこんだ」少年時代を送ったというすごい人もいて、これが中世・ルネッサンス音楽史の皆川達夫氏(『バロック音楽』講談社)であります。ちなみついでに、グレゴリア聖歌は単旋律・無伴奏で、wikiによれば、これがアメリカでゴスペルに流れ込んでいく。さらにこの川の行く手にいるのがポール・サイモンであります。
モーダルを追いかけて、もうちょっと続いてみたいと思います。(つづく)