ついに世界遺産です。
フランスのパリで開かれている国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は26日(現地時間25日)、日本が再推薦した「平泉」(岩手県平泉町)を、世界文化遺産に登録することを決めました。
この地の歴史は奥州藤原氏が文化遺産を多数造りましたが、さらにさかのぼると、征夷大将軍:坂上田村麻呂の存在を忘れてはいけません。
そもそも征夷大将の「征夷」とは、東夷を征討するという意味。征夷大将軍は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つです。
由来としては天皇に任命される軍事指揮官で、天皇の考えを逐一聞かなくても良いという職権から、今でいう最高司令官としての力が備わったものです。
以後、鎌倉時代から江戸時代まで、侍が行政のすべてを行っていたため、国王に近い権力を持ち、また、天皇に任命されることから、神聖さもあった。
そんな征夷大将軍、坂上田村麻呂が蝦夷を討伐した延暦20年(801年)以後、250年程の間、陸奥国は勢力を伸ばした安部氏によって比較的平穏を保ち、
胆沢、和賀、江刺、稗貫(ひえぬき)、紫波(しわ。志波)、岩手の「奥六郡」は陸奥国の縁辺となっていました。
そんな安部氏ですが、永承6年(1051年)になって事件は起こります。
安倍氏が貢ぎ物や徭役について国司に従わず、奥六郡の南境である衣川の柵を越えて勢力圏を拡大しようとしました。
これを防ぐため、陸奥守藤原登任(なりとう)は安倍頼良を討とうとしましたが大敗しました。
「前九年の役」
はそんな安部氏を源頼義やその子義家は、清原氏の援軍を得て安倍頼時や子貞任、宗任らを征討した戦いです。
奥州藤原氏の初代、藤原清衡の父親にあたる、藤原経清も安倍氏に味方したため殺されました。
父を失った清衡は母の再婚先である清原氏で養われることになります。
→清原清衡というとてもややこしい名前になっちゃったわけです。
1062年まで続きました。
で、1051年~1062年まで、実質12年間続いたこの戦をなぜ「九年」というかは意味不明です・・(^^;
これにより、安部氏に代わり清原氏がこの地の覇者になりました。
で、藤原清衡が清原氏へ養子に行ったことでこれが伏線になります。
「後三年の役」
です。
この「役」は、清原氏に関して国司である源氏の介入という一見シンプルな構図ですが、名前が「~衡」という点と、人間関係が非常にややこしいのです。
これは、一旦清原氏の家系図を見るとわかりやすいかもしれません。
武貞の死後、清原氏の家督を継いだ真衡であったが、真衡には嫡男が生まれなかったので養子を迎えた。これが成衡である。
さて、成衡の婚礼の際、前九年の役の功労者で清原一族の長老である吉彦秀武が祝いに訪れたが、真衡は碁に夢中になっており相手にしてもらえず。一族の長老としての面目を潰された秀武は大いに怒り、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまったという。
真衡はそんな秀武の行為を聞いて激怒し、秀武討伐の軍を起こした。一方の秀武は、同じく真衡と不仲であった清衡と家衡に密使を送って蜂起を促した。
清原真衡 対 吉彦秀武、清原家衡、清原清衡
の構図が出来上がります。
これが後三年の役の始まりです。
ここに源義家が陸奥守として介入、
清原真衡、源義家 対 清原清衡、清原家衡
清衡と家衡は真衡の不在を好機と見て再び真衡の本拠地を攻撃したが、義家が真衡側に加勢し、清衡・家衡連合軍は惨敗を喫し、清衡と家衡は義家に降伏しました。
本当ならここでめでたしめでたしなのですが・・・。
真衡が急死してしまいます。
ここからこの一族はさらにドロ沼へと引き込まれてしまいます。
真衡の死後、義家は真衡の所領であった奥六郡を3郡ずつ清衡と家衡に分与した。
ところが家衡はこの裁定を不満とし、1086年(応徳3年)に清衡の館を攻撃した。清衡の妻子一族はすべて殺されるも清衡自身は生き延び、義家の助力を得て家衡に対抗した。
清原清衡、源義家 対 清原家衡、清原武衡
の構図です。
籠城作戦により、家衡、武衡が勝利していたが、兵糧攻め?により敗北。
この頃に源義家の雁の群れの下の伏兵を見破ったという有名なエピソードもある。
とにかくこれにより、清原清衡が家督を継ぎ、
清原氏は陸奥守となり、このあたりを平定しました。
そして、清原清衡は藤原清衡と本来の性に戻し、奥州藤原氏の開祖となりました。
源義家は今後が悲劇で、朝廷に恩賞を要求するも、大義名分がなく、勝手に清原氏が争っていたところに勝手に源義家が顔を突っ込んだだけ。
といった内容の判断をし、恩賞がもらえない上に、陸奥守も解任された。
しかし、恩賞の代わりに自分の私財を家臣に与えたことにより源氏の結束は強まったといいます。
こうして、
初代:藤原清衡
二代:藤原基衡
三代:藤原秀衡
の構図が出来上がるわけですが、初代清衡はとても数奇な運命だったなと感心してしまいます。
前九年の役で滅ぼされた安部氏の血縁なのです。
で、養子に行ったのは清原氏。
前九年の役での勝者は清原氏。
清原氏どうしの戦いの後三年の役の勝者は清衡。
一見清原氏が勝ち残り、安部氏はとうの昔に滅んだと思われますが、清衡は清原氏と血が繋がっていませんので、
実際に滅んだのは清原氏であり、安部氏は藤原氏の血縁にあり、実際の勝者は安部氏であった。????
なんて考えられます。
まあややこしい限りであります。
ここから源義経が三代目、秀衡と関わり、
四代目、泰衡は義経を責め滅ぼしました。
が、頼朝により、奥州追討軍を率いて平泉へと向かいます。
この頼朝による奥州追討軍に常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)なる者が参加していました。
この人物こそ、伊達氏の初代、朝宗(ともむね)です。
平泉は坂上田村麻呂から始まり、安部氏、奥州藤原氏、伊達氏と引き継がれた歴史ある遺産なのです。
フランスのパリで開かれている国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は26日(現地時間25日)、日本が再推薦した「平泉」(岩手県平泉町)を、世界文化遺産に登録することを決めました。
この地の歴史は奥州藤原氏が文化遺産を多数造りましたが、さらにさかのぼると、征夷大将軍:坂上田村麻呂の存在を忘れてはいけません。
そもそも征夷大将の「征夷」とは、東夷を征討するという意味。征夷大将軍は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つです。
由来としては天皇に任命される軍事指揮官で、天皇の考えを逐一聞かなくても良いという職権から、今でいう最高司令官としての力が備わったものです。
以後、鎌倉時代から江戸時代まで、侍が行政のすべてを行っていたため、国王に近い権力を持ち、また、天皇に任命されることから、神聖さもあった。
そんな征夷大将軍、坂上田村麻呂が蝦夷を討伐した延暦20年(801年)以後、250年程の間、陸奥国は勢力を伸ばした安部氏によって比較的平穏を保ち、
胆沢、和賀、江刺、稗貫(ひえぬき)、紫波(しわ。志波)、岩手の「奥六郡」は陸奥国の縁辺となっていました。
そんな安部氏ですが、永承6年(1051年)になって事件は起こります。
安倍氏が貢ぎ物や徭役について国司に従わず、奥六郡の南境である衣川の柵を越えて勢力圏を拡大しようとしました。
これを防ぐため、陸奥守藤原登任(なりとう)は安倍頼良を討とうとしましたが大敗しました。
「前九年の役」
はそんな安部氏を源頼義やその子義家は、清原氏の援軍を得て安倍頼時や子貞任、宗任らを征討した戦いです。
奥州藤原氏の初代、藤原清衡の父親にあたる、藤原経清も安倍氏に味方したため殺されました。
父を失った清衡は母の再婚先である清原氏で養われることになります。
→清原清衡というとてもややこしい名前になっちゃったわけです。
1062年まで続きました。
で、1051年~1062年まで、実質12年間続いたこの戦をなぜ「九年」というかは意味不明です・・(^^;
これにより、安部氏に代わり清原氏がこの地の覇者になりました。
で、藤原清衡が清原氏へ養子に行ったことでこれが伏線になります。
「後三年の役」
です。
この「役」は、清原氏に関して国司である源氏の介入という一見シンプルな構図ですが、名前が「~衡」という点と、人間関係が非常にややこしいのです。
これは、一旦清原氏の家系図を見るとわかりやすいかもしれません。
武貞の死後、清原氏の家督を継いだ真衡であったが、真衡には嫡男が生まれなかったので養子を迎えた。これが成衡である。
さて、成衡の婚礼の際、前九年の役の功労者で清原一族の長老である吉彦秀武が祝いに訪れたが、真衡は碁に夢中になっており相手にしてもらえず。一族の長老としての面目を潰された秀武は大いに怒り、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまったという。
真衡はそんな秀武の行為を聞いて激怒し、秀武討伐の軍を起こした。一方の秀武は、同じく真衡と不仲であった清衡と家衡に密使を送って蜂起を促した。
清原真衡 対 吉彦秀武、清原家衡、清原清衡
の構図が出来上がります。
これが後三年の役の始まりです。
ここに源義家が陸奥守として介入、
清原真衡、源義家 対 清原清衡、清原家衡
清衡と家衡は真衡の不在を好機と見て再び真衡の本拠地を攻撃したが、義家が真衡側に加勢し、清衡・家衡連合軍は惨敗を喫し、清衡と家衡は義家に降伏しました。
本当ならここでめでたしめでたしなのですが・・・。
真衡が急死してしまいます。
ここからこの一族はさらにドロ沼へと引き込まれてしまいます。
真衡の死後、義家は真衡の所領であった奥六郡を3郡ずつ清衡と家衡に分与した。
ところが家衡はこの裁定を不満とし、1086年(応徳3年)に清衡の館を攻撃した。清衡の妻子一族はすべて殺されるも清衡自身は生き延び、義家の助力を得て家衡に対抗した。
清原清衡、源義家 対 清原家衡、清原武衡
の構図です。
籠城作戦により、家衡、武衡が勝利していたが、兵糧攻め?により敗北。
この頃に源義家の雁の群れの下の伏兵を見破ったという有名なエピソードもある。
とにかくこれにより、清原清衡が家督を継ぎ、
清原氏は陸奥守となり、このあたりを平定しました。
そして、清原清衡は藤原清衡と本来の性に戻し、奥州藤原氏の開祖となりました。
源義家は今後が悲劇で、朝廷に恩賞を要求するも、大義名分がなく、勝手に清原氏が争っていたところに勝手に源義家が顔を突っ込んだだけ。
といった内容の判断をし、恩賞がもらえない上に、陸奥守も解任された。
しかし、恩賞の代わりに自分の私財を家臣に与えたことにより源氏の結束は強まったといいます。
こうして、
初代:藤原清衡
二代:藤原基衡
三代:藤原秀衡
の構図が出来上がるわけですが、初代清衡はとても数奇な運命だったなと感心してしまいます。
前九年の役で滅ぼされた安部氏の血縁なのです。
で、養子に行ったのは清原氏。
前九年の役での勝者は清原氏。
清原氏どうしの戦いの後三年の役の勝者は清衡。
一見清原氏が勝ち残り、安部氏はとうの昔に滅んだと思われますが、清衡は清原氏と血が繋がっていませんので、
実際に滅んだのは清原氏であり、安部氏は藤原氏の血縁にあり、実際の勝者は安部氏であった。????
なんて考えられます。
まあややこしい限りであります。
ここから源義経が三代目、秀衡と関わり、
四代目、泰衡は義経を責め滅ぼしました。
が、頼朝により、奥州追討軍を率いて平泉へと向かいます。
この頼朝による奥州追討軍に常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)なる者が参加していました。
この人物こそ、伊達氏の初代、朝宗(ともむね)です。
平泉は坂上田村麻呂から始まり、安部氏、奥州藤原氏、伊達氏と引き継がれた歴史ある遺産なのです。