今年の大河ドラマは「江」ですが、
浅井長政とお市の方の三姉妹の末娘。
二代将軍、徳川秀忠の正室となり、三代将軍家光を産む。
乳母である春日局との確執やら、後半は大奥に関する見どころが多くなってくると思われます。
しかし、その前に、長女、茶々(淀君)との戦争が見どころの一つとなるでしょう。
本日、6月4日は大阪夏の陣: 豊臣秀頼と淀殿が自刃し豊臣氏が滅亡した日です。
1615年(元和元年5月8日) のことです。
大坂の陣は1614年の冬の陣と1615年夏の陣の2回行われ、徳川が豊臣を滅ぼした戦です。
1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、着実に天下人への道をかけ進み、1603年に征夷大将軍になります。
その後三男の秀忠に将軍職を譲り、大御所として駿府へ退き、実権は握っていました。
徳川家康は私に言わせると「小心者」です。
あくまで織田信長や、羽柴(豊臣)秀吉と比べての話ですが。
とうてい天下人の器ではなかったと思われます。
例えば、1572年の三方ヶ原の戦いでは、武田氏に散々に打ちのめされ、退却、その時は糞、尿を垂れ流すほどのお粗末ぶりだったといいます。
しかし結果は天下人です。
これは誰もが言っていることですが、寿命が長かったことが一番に考えられるでしょう。
とにかく家康は長生きでした。
1599年に五大老の実質的筆頭の前田利家が亡くなっています。
時間の経過とともに運がやってきたのではないでしょうか。
「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」
天下餅とは天下統一を指し
これば19世紀の半ばの落首(誰が書いたか判らない風刺の歌)で、この様子の絵は、1837年(天保8年)歌川芳虎が描いており、
それを「道外武者御代の若餅」として出版されています。
この落首は、
信長が苦労して乱世の世を終息させようと天下統一事業を進め、
秀吉がやっと天下統一を完成させたものを、
家康が先人が苦労して築いたものをやすやすと簡単に手に入れたということです。
これは完全に家康を酷評している表現であることがわかります。
1611年に豊臣秀頼との会見を実現し、両家は穏便に収まるかとおもいきや・・・
事件が起こります。
方広寺鐘銘事件です。
キーワードは
「国家安康」「君臣豊楽」「右僕射源朝臣家康」で
五山の僧、金地院崇伝は、「国家安康」は家康の諱を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると断定した。
また、林羅山は 「右僕射源朝臣家康」をを「家康を射る」ものであると解釈しています。(右僕射は右大臣の唐名だそうです)
まあ、これは戦争を起こす口実だったのは間違いないでしょう。
なぜなら、銘文も鐘もまったく破壊されず現在まで残っているからです。
少なくとも徳川家は本当に呪詛だとは思っていなかったか、もしくは呪詛の効力など信じていなかったことは確実であると解釈できます。
そして、1614年に大坂冬の陣、15年に夏の陣となるわけですが。
1615年大坂夏の陣はあっけない戦争でした。3日で決着がついたからです。
実はもっとあっけない戦争が天下分け目のあの「関ヶ原の戦い」だったのですが。
こちらは1日で終わり。
日本の天下分け目の戦いってあっけない幕切れが多いイメージです。
しかし、この3日間は戦国時代の終わりにふさわしい、武士の死華を咲かせる激闘と呼ぶにふさわしいものでした。
大坂の陣前に、豊臣氏は浪人を集めましたが、
この中でも真田信繁、毛利勝永、長宗我部盛親、後藤基次、明石全登は守護大名クラスの名門です。
個人的には毛利勝永と長宗我部盛親が好きですが、最も有名なのは真田幸村です。なので真田について記載してみます。
真田幸村という人物は史料がなく、真田信繁が本名です。
しかも、1612年に出家して好白と名乗っていることから、真田好白が当時の呼び名でしょう。
そもそも、真田幸村は、江戸時代以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将として取り上げられ、広く一般に知られることになった
ことに由来する架空の武将です。実在したのは真田信繁です。
信繁とは、武田信玄の弟、武田信繁に由来します。
武田信玄の父、武田信虎は、長男の晴信よりも次男の信繁を重宝したといいます。
そんな父信虎は、長男晴信(信玄)に隠居させられてしまうのですが、信繁の立派なところは、父の思惑とは別に、兄弟の道を踏み外すこと無く兄を慕い、天文10年(1541年)に信玄が信虎を駿河国に追放すると、その苦衷を察し、主君・信玄を補佐して家中をよく取りまとめたところにあります。
信玄の片腕として、伊那侵攻や上田原の戦い、塩尻峠の戦いなどの信濃攻略戦に従軍して、武田氏発展に尽力する。
永禄4年(1561年)9月、大激闘の第4次川中島の戦いで、信玄本陣の危急を知り、八幡原で死を決して奮戦し上杉勢を食い止め、兄を救った。
『上杉謙信申状』、『北越軍談』、『武辺咄聞書』等の記録によると、村上義清の手によって討ち取られたと記されている。享年37。長野市の典厩寺に眠る。
その死は武田軍団にとって大きな痛恨事であり、「惜しみても尚惜しむべし」と評された。
嫡子・武田信豊に残した99か条にわたる『武田信繁家訓』(甲州法度之次第の原型)は、江戸時代の武士の心得として広く読み継がれた。
「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と山県昌景が評したと、甲陽軍鑑は記している。
武田の副大将として、その人望はすこぶる高かった。
江戸時代の儒学者・室鳩巣は著書・駿台雑話の中で、「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄の弟、典厩信繁公なり」と賞賛している
そんな武田信繁が、真田信繁の名前の由来です。
真田家は武田家の家臣でしたのでわかりやすい由来です。
真田信繁は夏の陣で大奮闘。
真田隊は越前松平隊を蹴散らし、毛利隊らに手一杯であった徳川勢の隙を突き家康本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らした(ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという。これにより、奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる)。
家康のお墓は、日光東照宮本殿の右側、ここの一番奥にある銅製の宝塔が徳川家康のお墓になっており、この下に遺骨が埋納されているようです。
が、大阪堺市に龍興山南宋寺という寺があり、ここにも徳川家康のお墓があるといいます。
伝承によれば,大坂夏の陣で旗指物から武具甲冑まで赤で揃えた真田幸村の軍勢3000人(真田の赤揃え)による死を覚悟した最期の突撃の結果、
家康は思わぬ反撃に遭い、瀕死の重傷を負い南宋寺まで辿りつき、息絶えたという。
この時家康の死はごく一部の徳川重臣らによって秘匿化され、豊臣を滅ぼし翌年まで家康は生き長らえることになったという。
たしかに歴史年表の正史では家康の没年は翌1616年(元和2年)となっています。
これは偶然にしても面白い仮説です。
そんな真田信繁が討死した翌日に淀の方、豊臣秀頼、大野治長、大蔵卿の局、らは自刃し、豊臣氏は滅亡しました。
豊臣秀頼についても諸説あります。
秀吉の本当の子供ではないなど。
秀吉は天下人、多くの側室がいました。
しかし、生まれたのは茶々(淀の方)との間に2人のみ、そのうち一人は早世。
しかも秀吉59歳の時の子供です。
医学的に見ると世継ぎが生まれる可能性は確率的にかなり低いものです。
このあたりもふつうに考えると面白いかもしれません。
今回は歴史おたくになってしまいましたが、ここまで読めた方はなかなかのツワモノと思われます(^^;