幻の姫谷焼

幻の姫谷焼を現代に再生

デザイン

2018-07-24 20:00:16 | 日記
平成の姫谷を作るので、現代にあう形と模様を考えなくてはならない。
日本的に感じで、現代のデザインでなくてはならない。
広告の裏にでもいろいろ描いて見る。
姫谷の図案は江戸の初期の図案で、骨董の価値はあるが、現代の意匠が欲しい。
備後地方の建築家、藤井厚二ならどんなデザインをするか想像して、新たな姫谷焼を作らなくてはならない。
いよいよ、意匠で勝負する時がきた。

粘土作り

2018-07-23 16:03:58 | 日記
姫谷焼の御本手の粘土を作っています。
粘土は単味でなく、ブレンドしています。
ブレンドでは、学者の方にはわかりません。
姫谷焼窯跡周辺の粘土をブレンドをしながら、
成形できる粘土にします。
ブレンドの仕方は、何回も試作をしながら調整します。
白磁の粘土も調整しながら作ります。

陶石

2018-07-22 18:18:56 | 日記
姫谷焼の磁器は陶石で作られていない。
有田焼は陶石で作られている。
有田は、現在は天草陶石である。
昔は泉山陶石である。
姫谷焼の窯跡付近には、陶石は存在しない。
陶石が存在しないのに、磁器ができた裏には、朝鮮陶工が存在した。
朝鮮陶工でなければ、姫谷焼の磁器はできていないだろう。

毛利元康

2018-07-21 12:44:42 | 日記
姫谷焼はだれが始めたにかわからなかった。
備後国神辺城主 毛利元康(毛利元就八男)1591年から1600年神辺城主
元康は元禄・慶長の役の時に朝鮮出兵している。
その時に、朝鮮の陶工を連れて帰り、備後国に焼き物を始めたのが姫谷焼の始まりです。 
姫谷焼は毛利藩の御用窯であります。
1600年に関ケ原の戦いで毛利は破れ、神辺城を撤退した。
毛利家の御用窯であった姫谷焼を、毛利家と深い関係のある西本願寺が引きついたと思われる。
窯跡の土地の所有が浄土真宗本願寺派正福寺であります。
正福寺が支援をしていたものと思われます。

粘土作り成功

2018-07-20 07:50:11 | 日記
姫谷焼の再生で一番難題は、姫谷の粘土です。
窯跡周辺で粘土を採取しなくてなりません。
今まで姫谷を再現しようとした人はたくさんいるが、みんな挫折した。
粘土がなかった。昔のことなので、粘土を採取した場所は、そんなに遠くはないと近くを探したが
なかった。粘土があれば、姫谷焼はとっくの昔に再現できていただろう。
取りつくされてなくなったと思われていた。
粘土の作りを見ると、姫谷焼の陶工は朝鮮人の陶工に間違いない。
今なら、有田で粘土を買ってきて、姫谷焼の粘土で作ったと偽装すれば
素人にはわからない。それをしたら、姫谷風になるだけで、姫谷焼ではない。
いよいよ姫谷焼の再生がちかくなった。
まだまだ壁があるが、最大の難関は突破した。