坂本龍馬 幕末歴史検定ノート 3
(薩長盟約)
・慶応2年(1866)1月22日 京都の薩摩藩邸で薩長盟約成る。(西郷隆盛と桂小五郎)
・薩摩藩に参戦を求めていないので、軍事同盟という性格のものではない。
和解の真意は、長州藩の名誉回復、文久3年8月の政変以前への復権であり、
「薩長同盟」という言葉は「薩長盟約」と改められつつある。
・「尽力」とは、長州の堺町門の冤罪をはらすことに尽力すること
・軍資金などの具体的な数字は示されていない
・中岡慎太郎は同盟締結に同席していない
・同盟が成立するまで小松帯刀邸で宴会が開かれた
・龍馬が裏書した木戸書簡をふたたび山口の木戸のもとへ届けたのは、村田新八
・西郷隆盛が京都へ直行し、桂小五郎と西郷隆盛の下関会談が流れた理由は
(大久保利通からの手紙を受け取り)将軍家茂が入洛して長州再征の勅許を得ようとしているのを阻止するため
・薩長会談の席でのもう一つの案件は、ユニオン号の契約をめぐる薩長の紛糾を解決すること
(桂小五郎)
・裏書を求めたのは木戸孝允
・桂小五郎の変名は、木戸寛治、木戸準一郎、木戸孝允など10以上あったという
(近藤長次郎)
・慶応2年(1866)1月23日 近藤長次郎(上杉宗次郎)は、イギリスへの密航計画が露見して、小曾根乾堂方の「梅花書屋」と称された座敷で自刃した
・大里屋(餅菓子商)の長男
(寺田屋襲撃)
・慶応2年(1866)1月24日 未明、三吉慎三と共に、寺田屋で襲撃される
・龍馬は高杉晋作から贈られた6連発銃スミス・アンド・ウェッソンを手にしていた(5発弾を込めていた)
・お龍が「丸裸」で急を知らせたとしているのは、「阪本龍馬の未亡人」(安岡秀峰)
・寺田屋と日野屋は、高松順蔵の家のように心安い宿であると手紙に書いている(慶応元年)
・伏見から大坂八軒家までの三十石船(28人乗り)の船賃(下り)は、84文
上りは、180文
・新選組は、寺田屋のお登勢に、新選組定宿の看板を出せ、といった
・寺田屋を脱出した龍馬たちは伏見の薩摩藩邸に匿われたが、ここは現在「松山酒造」になっている
・1月30日、伏見の薩摩藩邸から二本松の薩摩藩邸に移動し、2月いっぱいここで療養生活を送る
(高杉晋作)
・龍馬は高杉晋作から漢文をしたためた扇子を贈られた
(新婚旅行)
・慶応2年(1866)3月5日、龍馬、お龍を乗せた「三邦丸」は大坂の天保山沖を出航し鹿児島へ向かう。
・2人を世話したのは、吉井友実
・温泉をめぐる行程は、日当山温泉→塩浸温泉→霧島温泉→塩浸温泉→日当山温泉の順
・この温泉治療の旅は坂崎紫瀾の「汗血千里駒」に「ホネー、ムーン」と紹介されたが
これは日本最初の新婚旅行ではない
・新婚旅行は小松帯刀が先である。1856年4月23日から5月6日まで、1月頃結婚した小松帯刀と近の夫婦が栄之尾温泉に滞在している。
・小松帯刀と篤姫の恋愛は完全にフィクションである
・日当山温泉には「西郷どん湯」がある
・塩浸温泉には「坂本龍馬お龍新婚湯治碑」が建つ
(ワイルウェフ号)
・長州藩にユニオン号を引き渡した社中に対し、薩摩藩は帆船ワイルウェフ号を貸与した
・「ワイルウェフ」とは「ワイルドウェーブ(荒波)」のこと
・慶応2年4月28日ユニオン号(長州藩から薩摩藩に贈る予定の兵糧米500俵を積んでいた)が長崎から出港した。ワイルウェフ号はユニオン号に曳航されて同行した。
・ワイルウェフ号には黒木小太郎(船将)、池内蔵太、浦田運次郎(佐柳高次)らが乗り込んでいた
・慶応2年(1866)5月2日 ワイルウェフ号が五島列島中通島の潮合崎で座礁し沈没。
黒木小太郎、池内蔵太らが死亡。浦田運次郎は生存。
・ユニオン号は5月1日に鹿児島に入港した。
・西郷吉之助は兵糧米の受け取りを辞退した。
木戸も受け取りに難色を示したので、龍馬は「私に与えて利用に供し…」たらどうかと提案し、結局、兵糧米は社中のものとなった。
(四境戦争)
・慶応2年6月4日、龍馬とお龍は下関に向かうユニオン号に乗船する。
長崎で寄港したさいに、お龍を小曾根英四郎に託す。
・高杉晋作に小倉口の幕府軍攻撃のためユニオン号の出陣を要請され、承諾
・6月17日ユニオン号は庚申丸を率いて出撃、門司浦へ接近し艦砲射撃を行った
・龍馬は「阿弥陀寺民家の屋上に登り、対岸の戦況を眺望す。」(「維新土佐勤王史」)と、阿弥陀寺町(下関市)にいたとして、参戦していない。
・長幕戦争は、大島口(南部)、芸州口(東部)、石州口(北部)、小倉口(西部)の4方面で戦われたので、長州藩内では四境戦争と呼ばれた
(太極丸)
・慶応2年(1866) 10月28日 「太極丸」を受領(プロシアの商人チョルチーから購入)
・船長は白峰駿馬
(海援隊)
・慶応3年(1867) 1月13日(?) 後藤象二郎と長崎の清風亭にて会談し、土佐藩と和解
・龍馬とお龍は下関の伊藤助太夫の家の一室「自然堂」で暮らす
・龍馬を海援隊長に任命したのは福岡孝弟(土佐藩大監察)
・海援隊は土佐藩に属するが、藩の外部組織「遊軍」であり、藩の直属ではない。
・海援隊、陸援隊の運営費用は海援隊の活動による利益でまかなう。臨時に土佐藩が支出
・海援隊は商社、船舶学校(学問所)、私設海軍、倒幕活動の拠点の要素を含んでいた。
・海援隊の隊旗は旗を横に3等分し、上から赤、白、赤に染めたもの
・隊士の菅野覚兵衛(前名 千屋寅之助)は、お龍の妹 起美と結婚
・明治2年、菅野覚兵衛は白峰駿馬と米国へ渡航し、ラトガース大学で造船や航海術を学んだ
・隊士の陸奥陽之助(前名 伊達小二郎)は紀州藩出身。
「商法の愚案」を龍馬に提出。「カミソリ陸奥」の異名を持つ
・隊士の関雄之助(前名 沢村惣之丞)は薩摩藩士の誤殺の責を負って自刃(佐々木三四郎が自刃を要請)
・土佐商会を経営し、海援隊を助けたのは岩崎弥太郎(海援隊の隊士ではない)
土佐藩開成館貨殖局の長崎出張所をいわゆる土佐商会という
・出版物 「閑愁録(長岡謙吉の書)」「和英通韻以呂波便覧」「藩論」
・「和英通韻以呂波便覧」(慶応4年刊行)の内容は万延元年(1860)の「商貼外和通韻便宝」の内容をそのまま模刻したもので海援隊独自のものではない
・「万国公法」は計画があったが海援隊から出版されなかった
「万国公法」を日本で最初に出版したのは、開成所(慶応元年)
・檜垣清治と万国公法の「長刀→短刀→短銃→万国公法」のエピソードはフィクションである
檜垣清治は、文久3年(1863)入獄し、維新後に赦免されるまで土佐の獄中にあったので龍馬から短銃や「万国公法」を示されるはずがない。
・海援隊が経営していた書店は「春雄堂」
・龍馬亡き後は、大坂在住派(長岡謙吉が中心)と長崎在住派(菅野覚兵衛が中心)の2派に分裂した
・長岡謙吉は塩飽本島での騒擾事件を収めた
・龍馬亡き後は、長岡謙吉(前名 今井純生)が隊長になった(慶応4年4月12日)
・海援隊と陸援隊(中岡慎太郎)をあわせて「翔天隊」とするプランがあった
・戊辰戦争のさい、海援隊は長崎奉行所を占領した
・唯一の佐幕派は小谷耕蔵(いろは丸の船将を務めた)
・海援隊は慶応4年うるう4月17日に解散
(兵庫商社)
・慶応3年4月、幕府は兵庫開港に備えて勘定奉行の小栗忠順の建議により兵庫商社が設立された。(日本最初の株式会社 出資した大坂商人20人が役員となる)
(いろは丸事件)
・船長は小谷耕蔵、小曾根英四郎が会計官として乗船していた
・慶応3年(1867)4月23日 午後11時ごろ、箱ノ崎の沖で、いろは丸(大洲藩から借りた)と紀州艦明光丸が衝突し、いろは丸が沈没
・「いろは丸」と命名したのは龍馬である
・日本古来の慣習では、大きい船と小さい船が出会った場合には、小さい船が航路を譲ることになっていた
・現在の国際航法では、右側航行船に通行優先権がある
・2つの船が正面に向かい合った場合は、互いに右にさけて右側通行をする。
・夜間航行中は、右舷に青灯、左舷に赤灯を点けなければならなかった
・「(相手側が)舷灯を点けていなかった」と主張したのは紀州藩側である。
・紀州藩側が見張りを立てていなかったことを認めさせた
・長崎奉行へ事故の届けを出したのは紀州藩である
・慶応3年5月22日から土佐藩の代表として後藤象二郎が出席
・紀州藩の茂田一次郎は五代才助(薩摩藩)に調停を依頼した
五代才助は83526両の賠償金支払いの調停案を下した。のちに70000両に減額される。
・いろは丸の代金が35600両、積荷とその他の代金は約49000両(かなり上積みされたもの)
・積荷は主に米と砂糖であり、小銃などはない。
・明光丸の船長は高柳楠之助
高柳楠之助は龍馬を殺害しようとしたが未遂
・龍馬側の宿所は桝屋清右衛門宅、紀州側の宿所は福善寺の対潮楼。魚屋万蔵宅で再び会談
・龍馬は「万国公法」を持ち出したが、当時「万国公法」という国際法は制定されていない。龍馬のいう「万国公法」とはアメリカのエートンが書いた国際法を中国訳したものであろう。それを開成所が出版した(慶応元年)
「国際法規を細かく掲載したもの」と考えていたのなら「英国海上衝突予防規則」のこととも考えられる
・4月27日、寺田屋のお登勢に、いろは丸から持ち出した「望遠鏡と時計」を送る旨の手紙を記す
・土佐藩は船舶価格(35600両)の9割を大洲藩へ年賦で支払うことにした
その金は、国島六左衛門(大洲藩の正式な許可を得ず、オランダ商人ボードウィンから購入し、薩摩藩の所有として登録した(当時、蒸気船の所有は藩にしか認められなかった))は受け取っていない(慶応2年12月25日に自刃している)
結局、賠償金は大洲藩に引き渡されずうやむやになった
(いろは丸事件 補足)
・慶応2年8月ごろ、大洲藩士 国島六左衛門は本来、銃器購入の藩命を受けていたが、独断でオランダ商人ボードインから蒸気船を購入した。
・蒸気船の購入には藩の裁可が必要であったが、それを得ていないことから大洲藩名義とすることができなかったため、薩摩藩名義で購入した。これが「いろは丸」である。
そのときに周旋したのが、薩摩藩士の五代才助と龍馬だった。
・慶応2年11月には、いろは丸は正式に大洲藩船と認められるものの、国島六左衛門は代金の調達ができなかったため、責任を負って慶応2年12月25日に切腹した。
・後藤象二郎は大洲藩にいろは丸の借用を申し入れ、慶応3年4月8日にいろは丸は長崎へ入港した。
・4月19日深夜、龍馬以下の海援隊士がいろは丸に乗り込み大坂へ向けて長崎を出港した。
そして、4月23日午後11時ごろ讃州箱ノ崎沖、備後灘の六島の2キロ手前ほどに達したとき、紀州藩船 明光丸と衝突した。
・いろは丸の乗員、乗客は全員明光丸に乗り移り、いろは丸は明光丸に曳航されて鞆港(広島県福山市)へ向かったが、途中でいろは丸は沈没した。
・五代才助の調停により土佐藩から大洲藩へいろは丸の賠償金として、船価35630両の1割引きの金額(32617両)が年賦で支払われることになった。
・支払いの第1回目は10月に予定されていたが、それが実行されたかどうか土佐藩、大洲藩ともに記録はない(大洲藩が受け取った形跡がない)
・船を購入した国島六左衛門は慶応2年12月に自刃し、海援隊長の龍馬も殺害され、関係者がいなくなってしまった。
・結局、いろは丸の賠償金は大洲藩に届かず、その行方はうやむやになってしまった。
・賠償金の一部を岩崎弥太郎が横領したという説がある
・岩崎弥太郎は後に三菱財閥を起こすが、その資金の出所はどこにあるのだろうか。
岩崎弥太郎のような下級藩士がどのようにしてその資金を得たのであろうか。
・龍馬はいろは丸で竹島(現在の鬱陵島)へ渡航しようとしていた
その前、吉田松陰が竹島開拓を計画していた
(八策)
・慶応3年(1867)6月9日 後藤象二郎と共に土佐藩船 夕顔丸で長崎を出港し、兵庫へ向かう船中で「八策」を提示した。筆記したのは長岡謙吉
・「船中八策」という言葉が用いられるようになったのは、昭和元年(1926年)刊行の「坂本龍馬関係文書」(岩崎鏡川 編)による。
・8項目では金銀の交換率を外国と均一化させるべきとしている
(薩土盟約)
・慶応3年(1867)6月22日 京都三本木の料亭吉田屋にて薩土盟約が成立。
薩摩からは小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵、
土佐からは後藤象二郎、福岡藤次など、龍馬、中岡も加わる
・龍馬は京都三条通り河原町の「酢屋」を宿としていた。
・酢屋は海援隊の京都詰め所だった。
・龍馬が岩倉具視に初めて会ったのは、慶応3年6月25日
(イカルス号事件)
・慶応3年(1867)7月6日 長崎の丸山遊郭のある町で英国軍艦イカルス号の水兵
ロバート・フォードとジョン・ホッチングスが殺害され、海援隊士に犯行の疑いがかけられた。
・犯人は福岡藩士、金子才吉(藩船 大鵬丸の乗組員)だった。
(最後の帰宅)
・慶応3年(1867)9月14日 オランダ商人ハットマンからライフル銃1300挺購入の契約を結ぶ
・ハットマン商社との契約書のサインは「才谷梅太郎」となっている
・15日、芸州藩船 震天丸に小銃を積み込み、18日長崎を出港。
100挺は広瀬屋と鋏屋の両人に担保として預け、200挺は上方へ送り、1000挺は土佐藩に買い取らせた
・23日、龍馬は土佐に下船、9月28日 文久2年の脱藩以来5年半ぶりに自宅に帰る(最後の帰宅となる)
・土佐藩から「大義料」として50両を下された。(土佐藩が龍馬の存在意義を認めたということ)20両を乙女に与えた
(大政奉還)
・慶応3年(1867)10月3日 後藤象二郎が大政奉還建白書を老中 板倉勝静へ提出
・10月9日 龍馬は大坂より京都へ上り、「酢屋」を宿とする(酢屋の主人は中川嘉兵衛)
・10月13日 龍馬は酢屋(龍馬が京都の海援隊本部とした)から近江屋(土佐藩の御用商人)に宿を代える(近江屋の主人は井口新助)
・10月14日 慶喜が大政奉還を上奏(二条城二の丸御殿の大広間一の間二の間で)
・10月14日 尾崎三良、中島作太郎らが近江屋に集まり、「新官制擬定書」と称されることとなる職制案を協議
・その草案が「史談会速記録」に発表されている。
・「史談会速記録」の「参議」の候補者に「坂本」と龍馬の名前があり、龍馬が「世界の海援隊でもやらんかな」(千頭清臣の「坂本龍馬」所収の「逸話一束」で紹介されたエピソード)と語ることなどない。
・お龍は「外国の隅々まで残らず廻ってみとう御座います」と語っている(「反魂香」)
・龍馬は「役人になるのはおれは否じゃ」と語った(「千里駒後日譚」)
・慶応3年(1867)10月15日 大政奉還勅許
・慶応3年(1867)10月11日ごろ、龍馬は後藤象二郎にあてて「銀座移転論(江戸の銀座を京師に移し候事)」を述べた手紙を記した。
貨幣の鋳造権さえ握ることができれば、大政奉還はなくても構わないとした
・10月17日、薩摩の吉井幸輔が近江屋より薩摩藩邸への移転を進言
・徳川政権の幕引きは265年目のこと(1603年から1867年まで)
(龍馬暗殺)
・慶応3年(1867)33歳 11月15日 近江屋(しょうゆ屋)で中岡慎太郎と共に襲われ死亡
・龍馬が土蔵の一室に潜伏していた事実はない。(「井口新之助談話」以外には土蔵について何も触れていない)
・11月15日
午後3時ごろ、龍馬は福岡藤次を訪れたが、不在だったため、5時ごろ再訪する
帰りぎわに、福岡の愛人「白拍子のおかよ」は「自分の下宿に行かぬか」と龍馬に誘われるが、同行していない。
・近江屋の母屋の2階で中岡と語り合っているところへ、宮地彦三郎(海援隊士)が訪れる。龍馬と中岡は2階から階下の宮地を立ち寄るように誘ったが、宮地は下宿に帰る
・午後7時ごろ菊屋峰吉が近江屋へやってくる
・岡本健三郎も顔を出す
・このとき、近江屋には新助夫婦とふたりの子供、そして龍馬、中岡、藤吉、峰吉、岡本の5人がいた。
・近江屋の2階に上がった刺客は、京都見廻組の佐々木只三郎、今井信郎、渡辺篤、世良敏郎(刀の鞘の持ち主)の4人であった。
・近江屋の2階には、菊屋峰吉もいた。峰吉は明かり取りから脱出した。
今井は「六畳の方には書生が三人おって…逃げてしまいました」、渡辺は「命を助かりし者、これは十三、四くらいの給仕か」と下僕の藤吉以外の誰かがいたという。
・菊屋峰吉が「鶏肉」を買いに行ったというのは、峰吉の自己申告のみであって、現場から逃走したことを隠すためのうそであろう。
・現場に残された下駄は、「瓢亭」のものではなく、「中村屋」と「かい々堂」のもの
下駄は刺客の遺留品ではなく、下駄がどこのものかはどうでもいいことである
刺客が下駄をはいて現場に向かうはずがないし、わざわざご丁寧に履物を脱いで家に上がらないだろう
・2、3日前より風邪をひいていたという様子もうかがえない
・当日の天候は、前夜から雨でいったん晴れたものの、午後からは降ったり止んだりし、雨が止み、夜には晴天となった
・今井信郎の談話は、「近畿評論」5月号(明治33年)の「坂本龍馬殺害人」において発表された
談話筆記者は「鶴城」とあって、岩田鶴城のことで、筆記したのは元甲陽鎮撫隊の結城無二三の長男で「甲斐新聞」の主筆をつとめていた結城礼一郎
初出は「甲斐新聞」だった。結城礼一郎が今井信郎の談話を「甲斐新聞」に書いた。(礼一郎が無理にたのんで聞かせてもらった)
そのとき、「甲斐新聞」の編集長が岩田鶴城だった。岩田鶴城が「甲斐新聞」をやめて京都へ帰ったとき、京都で発行されている雑誌「近畿評論」へ今井信郎の談話をそのまま寄稿した
・今井信郎によると
2階に上がったのは、佐々木只三郎、桂隼之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎で
階下で見張り役をつとめたのは、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎
・渡辺篤によると、龍馬の身辺を探っていた密偵は「増次郎」
・新選組を脱した大石鍬次郎は新選組による犯行とした
・今井信郎によると、佐々木只三郎が「松代藩」の名刺を差し出したとする
・佐々木只三郎は襲撃のあと「松林寺」に戻ったとされる
・佐々木只三郎の墓は「紀三井寺」にある
・佐々木只三郎は慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いで重傷を負い、1月11日に幕艦 富士山丸で治療をうけたものの、11日あるいは12日に艦内で死亡し、水葬に伏された
・龍馬が暗殺時に持っていた刀は「陸奥守吉行」
・「土藩坂本龍馬伝」には「直柔(龍馬)は大小三十四カ所、慎太郎は大小とも二十八カ所」傷を受けたとある。
・私見では、複数の刺客が同時に龍馬を襲ってメッタ切りにしたのだろう。
・龍馬は暗殺時にピストルをふところに持っていたかどうかは不明であるが、仮にピストルをふところに持っていたとしても、近い間合いでは切りつける刀のスピードにはかなわないだろう。ピストルを出して発砲する前に刀が先にとどく
・土佐藩邸から来た藩医は川村盈進
・近江屋に一番早くかけつけたのは嶋田庄作(土佐藩小監察)という
・徳川慶喜は暗殺現場にかけつけていない
・事件の前に伊藤甲子太郎から気をつけるよう忠告されていた
・伊藤甲子太郎は江戸で北辰一刀流の道場を経営していた
新選組から分離後は、孝明天皇御陵衛士として活動
龍馬暗殺の3日後 11月18日に新選組に暗殺された
・暗殺された近江屋の2階の部屋には「貼交屏風」という屏風があった。
向かって左側の上部には富士山図(狩野探幽)下部には、牡丹と猫の絵が描かれている
・この屏風は京都国立博物館が所蔵している
・しかし、この屏風に付いている血痕には不審な点があり、この屏風が実際に現場にあったものなのか疑問がある。
・また、寒椿と白梅の絵が描かれた掛け軸(板倉槐堂)があり、絵の上に長岡謙吉の追悼文が記されている。
・葬送は17日の夜間に行われた(東山の霊山に葬られた)
・18日には、中村半次郎が墓参している
・福岡孝弟(土佐藩参政)は現場にも葬儀にも出ていない
・印刷物で最も古い見廻組説は、城兼文の「文明史略」(明治7年)である
・近江屋の跡地は今は、コンビニ(サークルK)が建っている
・お龍が龍馬の死を知ったのは12月2日である(下関の伊藤九三方で)
佐柳高治によってもたらされた
その後、お龍は長府の三吉慎蔵に身柄を預けられた
(龍馬と刀剣)
・龍馬の遺品として中島作太郎から三吉慎蔵に贈られた刀は「正宗」の刀
・龍馬が暗殺される2日前、陸奥宗光から依頼されて鑑定した刀は「在銘の短刀」
・龍馬は刀剣について鑑定ができる程の知識と経験を積んでいた
・龍馬は「刀剣図考」という刀剣の専門書を読んでいた
・岩崎弥太郎の「筑紫鎗の短刀」を欲しがった
鎗の先を改造して短刀に直したもの。
弥太郎は譲らず、代わりに馬乗袴を仕立てて龍馬に贈った
・毛利敬親から「備前吉光の短刀」を拝領した
・文久2年(1862)3月脱藩時に持っていた刀は「肥前忠広」
・慶応3年(1867)に兄の権平から拝領した刀は「吉行」
吉行は土佐藩抱工。陸奥守吉行と銘を切る場合もある。丁子乱れの大坂風
暗殺時、鞘のまま受けたといわれる。
・慶応3年(1867)9月、最後の帰国をしたとき、梨地の大小(梨地塗りの鞘の大小)を差していた
(中岡慎太郎)
・「時勢論」は中岡慎太郎の政治論集
・中岡が龍馬のもとを訪ねたのは、宮川助五郎の身柄の引き取りについて相談するため
・菊屋という書肆に下宿していた。菊屋の息子が峰吉
・中岡が暗殺時に持っていた短刀は「信国」
・重傷だった中岡は「焼飯(焼きおにぎり)が食べたい」と言った
・中岡は17日に亡くなった(30歳)
(藤吉)
・元力士で雲井龍という四股名
・京都先斗町の料亭「武乃屋」の出前持ちとなって酢屋に出入りしていた
(田中光顕)
・田中光顕は陸援隊に加盟していた。近江屋へかけつけた。
維新後、龍馬のことを「闊達磊落」と評した
(下関の異名)
・「赤間関」「馬関」「穴戸」
(天満屋襲撃)
・慶応3年12月7日 海・陸援隊士ら16名が紀州藩の三浦休太郎を油小路花屋町の天満屋を襲撃した。
のちに僧侶になったのは、大江卓
襲撃側の死者は、中井庄五郎(十津川郷士)のみ。
(龍馬に関わる女性)
・長命だった順
西山加尾(明治42年 72歳で死去)→西村ツル(明治39年 66歳で死去)
千葉佐那子(明治29年 59歳で死去)→坂本乙女(明治22年 49歳で死去)
寺田屋お登勢(明治10年 47歳で死去)
(銅像)
・桂浜の龍頭岬に建つ龍馬像を制作した彫刻家は「本山白雲」
昭和3年5月27日、高知県青年により建立
・5月27日は「海軍記念日」だった
明治38年5月27日、日本海海戦で日本海軍連合艦隊(東郷平八郎司令長官)がロシアのバルチック艦隊を破ったことから
・平成元年、長崎の風頭公園に龍馬像が建立された(制作は山崎和国)
「龍馬の銅像建つうで会」
・京都の円山公園には龍馬と中岡慎太郎の2人の銅像が建立されている(川本直水が昭和37年に再建した2代目のもの、制作者は菊池一雄)
「坂本・中岡両先生銅像建設会」が初代銅像を建設するため、資金集めを目的に出版されたのが「雋傑坂本龍馬」
・「船中八策」の石碑が建つのは、高知県安芸郡芸西村
・室戸岬の中岡慎太郎の銅像も本山白雲の制作
・本山白雲の師匠は高村光雲
・高村光雲は上野公園の西郷隆盛像を制作
・京都にはお龍像が建っていない
・平成7年、高知県檮原町に建立された「維新の門」の群像に入っていないのは
中岡慎太郎のもの
(映画など)
・牧野省三があげた、映画が成功するための3要素は
1筋(ストーリーがおもしろい脚本)2ヌケ(ヌケるような映像の明るさ)
3動作(演技力とそれを引き出す演出力)
・舞台俳優 1声 2顔 3姿
・台本 根本→正本→脚本(明治20年前後から)
・「殺陣」の標記は新国劇の澤田正二郎らが考えた当て字である
・出演者がいないのは「出トチ」という
・「裏方」はもともとは貴人の妻の敬称だった
・緞帳ラインから手前(客席側)を「表」、奥(舞台側)を「裏」と総称する
・表が仕事場になる入場券売場、入場券もぎり、客席案内、営業、宣伝の人々、製作者(プロデューサー)は表方
・舞台監督、大道具、小道具、照明、音響、化粧、衣装、楽屋係などを裏方という
舞台監督は裏方総責任者
・出演者、作家、演出家は表方でも裏方でもない
(薩長盟約)
・慶応2年(1866)1月22日 京都の薩摩藩邸で薩長盟約成る。(西郷隆盛と桂小五郎)
・薩摩藩に参戦を求めていないので、軍事同盟という性格のものではない。
和解の真意は、長州藩の名誉回復、文久3年8月の政変以前への復権であり、
「薩長同盟」という言葉は「薩長盟約」と改められつつある。
・「尽力」とは、長州の堺町門の冤罪をはらすことに尽力すること
・軍資金などの具体的な数字は示されていない
・中岡慎太郎は同盟締結に同席していない
・同盟が成立するまで小松帯刀邸で宴会が開かれた
・龍馬が裏書した木戸書簡をふたたび山口の木戸のもとへ届けたのは、村田新八
・西郷隆盛が京都へ直行し、桂小五郎と西郷隆盛の下関会談が流れた理由は
(大久保利通からの手紙を受け取り)将軍家茂が入洛して長州再征の勅許を得ようとしているのを阻止するため
・薩長会談の席でのもう一つの案件は、ユニオン号の契約をめぐる薩長の紛糾を解決すること
(桂小五郎)
・裏書を求めたのは木戸孝允
・桂小五郎の変名は、木戸寛治、木戸準一郎、木戸孝允など10以上あったという
(近藤長次郎)
・慶応2年(1866)1月23日 近藤長次郎(上杉宗次郎)は、イギリスへの密航計画が露見して、小曾根乾堂方の「梅花書屋」と称された座敷で自刃した
・大里屋(餅菓子商)の長男
(寺田屋襲撃)
・慶応2年(1866)1月24日 未明、三吉慎三と共に、寺田屋で襲撃される
・龍馬は高杉晋作から贈られた6連発銃スミス・アンド・ウェッソンを手にしていた(5発弾を込めていた)
・お龍が「丸裸」で急を知らせたとしているのは、「阪本龍馬の未亡人」(安岡秀峰)
・寺田屋と日野屋は、高松順蔵の家のように心安い宿であると手紙に書いている(慶応元年)
・伏見から大坂八軒家までの三十石船(28人乗り)の船賃(下り)は、84文
上りは、180文
・新選組は、寺田屋のお登勢に、新選組定宿の看板を出せ、といった
・寺田屋を脱出した龍馬たちは伏見の薩摩藩邸に匿われたが、ここは現在「松山酒造」になっている
・1月30日、伏見の薩摩藩邸から二本松の薩摩藩邸に移動し、2月いっぱいここで療養生活を送る
(高杉晋作)
・龍馬は高杉晋作から漢文をしたためた扇子を贈られた
(新婚旅行)
・慶応2年(1866)3月5日、龍馬、お龍を乗せた「三邦丸」は大坂の天保山沖を出航し鹿児島へ向かう。
・2人を世話したのは、吉井友実
・温泉をめぐる行程は、日当山温泉→塩浸温泉→霧島温泉→塩浸温泉→日当山温泉の順
・この温泉治療の旅は坂崎紫瀾の「汗血千里駒」に「ホネー、ムーン」と紹介されたが
これは日本最初の新婚旅行ではない
・新婚旅行は小松帯刀が先である。1856年4月23日から5月6日まで、1月頃結婚した小松帯刀と近の夫婦が栄之尾温泉に滞在している。
・小松帯刀と篤姫の恋愛は完全にフィクションである
・日当山温泉には「西郷どん湯」がある
・塩浸温泉には「坂本龍馬お龍新婚湯治碑」が建つ
(ワイルウェフ号)
・長州藩にユニオン号を引き渡した社中に対し、薩摩藩は帆船ワイルウェフ号を貸与した
・「ワイルウェフ」とは「ワイルドウェーブ(荒波)」のこと
・慶応2年4月28日ユニオン号(長州藩から薩摩藩に贈る予定の兵糧米500俵を積んでいた)が長崎から出港した。ワイルウェフ号はユニオン号に曳航されて同行した。
・ワイルウェフ号には黒木小太郎(船将)、池内蔵太、浦田運次郎(佐柳高次)らが乗り込んでいた
・慶応2年(1866)5月2日 ワイルウェフ号が五島列島中通島の潮合崎で座礁し沈没。
黒木小太郎、池内蔵太らが死亡。浦田運次郎は生存。
・ユニオン号は5月1日に鹿児島に入港した。
・西郷吉之助は兵糧米の受け取りを辞退した。
木戸も受け取りに難色を示したので、龍馬は「私に与えて利用に供し…」たらどうかと提案し、結局、兵糧米は社中のものとなった。
(四境戦争)
・慶応2年6月4日、龍馬とお龍は下関に向かうユニオン号に乗船する。
長崎で寄港したさいに、お龍を小曾根英四郎に託す。
・高杉晋作に小倉口の幕府軍攻撃のためユニオン号の出陣を要請され、承諾
・6月17日ユニオン号は庚申丸を率いて出撃、門司浦へ接近し艦砲射撃を行った
・龍馬は「阿弥陀寺民家の屋上に登り、対岸の戦況を眺望す。」(「維新土佐勤王史」)と、阿弥陀寺町(下関市)にいたとして、参戦していない。
・長幕戦争は、大島口(南部)、芸州口(東部)、石州口(北部)、小倉口(西部)の4方面で戦われたので、長州藩内では四境戦争と呼ばれた
(太極丸)
・慶応2年(1866) 10月28日 「太極丸」を受領(プロシアの商人チョルチーから購入)
・船長は白峰駿馬
(海援隊)
・慶応3年(1867) 1月13日(?) 後藤象二郎と長崎の清風亭にて会談し、土佐藩と和解
・龍馬とお龍は下関の伊藤助太夫の家の一室「自然堂」で暮らす
・龍馬を海援隊長に任命したのは福岡孝弟(土佐藩大監察)
・海援隊は土佐藩に属するが、藩の外部組織「遊軍」であり、藩の直属ではない。
・海援隊、陸援隊の運営費用は海援隊の活動による利益でまかなう。臨時に土佐藩が支出
・海援隊は商社、船舶学校(学問所)、私設海軍、倒幕活動の拠点の要素を含んでいた。
・海援隊の隊旗は旗を横に3等分し、上から赤、白、赤に染めたもの
・隊士の菅野覚兵衛(前名 千屋寅之助)は、お龍の妹 起美と結婚
・明治2年、菅野覚兵衛は白峰駿馬と米国へ渡航し、ラトガース大学で造船や航海術を学んだ
・隊士の陸奥陽之助(前名 伊達小二郎)は紀州藩出身。
「商法の愚案」を龍馬に提出。「カミソリ陸奥」の異名を持つ
・隊士の関雄之助(前名 沢村惣之丞)は薩摩藩士の誤殺の責を負って自刃(佐々木三四郎が自刃を要請)
・土佐商会を経営し、海援隊を助けたのは岩崎弥太郎(海援隊の隊士ではない)
土佐藩開成館貨殖局の長崎出張所をいわゆる土佐商会という
・出版物 「閑愁録(長岡謙吉の書)」「和英通韻以呂波便覧」「藩論」
・「和英通韻以呂波便覧」(慶応4年刊行)の内容は万延元年(1860)の「商貼外和通韻便宝」の内容をそのまま模刻したもので海援隊独自のものではない
・「万国公法」は計画があったが海援隊から出版されなかった
「万国公法」を日本で最初に出版したのは、開成所(慶応元年)
・檜垣清治と万国公法の「長刀→短刀→短銃→万国公法」のエピソードはフィクションである
檜垣清治は、文久3年(1863)入獄し、維新後に赦免されるまで土佐の獄中にあったので龍馬から短銃や「万国公法」を示されるはずがない。
・海援隊が経営していた書店は「春雄堂」
・龍馬亡き後は、大坂在住派(長岡謙吉が中心)と長崎在住派(菅野覚兵衛が中心)の2派に分裂した
・長岡謙吉は塩飽本島での騒擾事件を収めた
・龍馬亡き後は、長岡謙吉(前名 今井純生)が隊長になった(慶応4年4月12日)
・海援隊と陸援隊(中岡慎太郎)をあわせて「翔天隊」とするプランがあった
・戊辰戦争のさい、海援隊は長崎奉行所を占領した
・唯一の佐幕派は小谷耕蔵(いろは丸の船将を務めた)
・海援隊は慶応4年うるう4月17日に解散
(兵庫商社)
・慶応3年4月、幕府は兵庫開港に備えて勘定奉行の小栗忠順の建議により兵庫商社が設立された。(日本最初の株式会社 出資した大坂商人20人が役員となる)
(いろは丸事件)
・船長は小谷耕蔵、小曾根英四郎が会計官として乗船していた
・慶応3年(1867)4月23日 午後11時ごろ、箱ノ崎の沖で、いろは丸(大洲藩から借りた)と紀州艦明光丸が衝突し、いろは丸が沈没
・「いろは丸」と命名したのは龍馬である
・日本古来の慣習では、大きい船と小さい船が出会った場合には、小さい船が航路を譲ることになっていた
・現在の国際航法では、右側航行船に通行優先権がある
・2つの船が正面に向かい合った場合は、互いに右にさけて右側通行をする。
・夜間航行中は、右舷に青灯、左舷に赤灯を点けなければならなかった
・「(相手側が)舷灯を点けていなかった」と主張したのは紀州藩側である。
・紀州藩側が見張りを立てていなかったことを認めさせた
・長崎奉行へ事故の届けを出したのは紀州藩である
・慶応3年5月22日から土佐藩の代表として後藤象二郎が出席
・紀州藩の茂田一次郎は五代才助(薩摩藩)に調停を依頼した
五代才助は83526両の賠償金支払いの調停案を下した。のちに70000両に減額される。
・いろは丸の代金が35600両、積荷とその他の代金は約49000両(かなり上積みされたもの)
・積荷は主に米と砂糖であり、小銃などはない。
・明光丸の船長は高柳楠之助
高柳楠之助は龍馬を殺害しようとしたが未遂
・龍馬側の宿所は桝屋清右衛門宅、紀州側の宿所は福善寺の対潮楼。魚屋万蔵宅で再び会談
・龍馬は「万国公法」を持ち出したが、当時「万国公法」という国際法は制定されていない。龍馬のいう「万国公法」とはアメリカのエートンが書いた国際法を中国訳したものであろう。それを開成所が出版した(慶応元年)
「国際法規を細かく掲載したもの」と考えていたのなら「英国海上衝突予防規則」のこととも考えられる
・4月27日、寺田屋のお登勢に、いろは丸から持ち出した「望遠鏡と時計」を送る旨の手紙を記す
・土佐藩は船舶価格(35600両)の9割を大洲藩へ年賦で支払うことにした
その金は、国島六左衛門(大洲藩の正式な許可を得ず、オランダ商人ボードウィンから購入し、薩摩藩の所有として登録した(当時、蒸気船の所有は藩にしか認められなかった))は受け取っていない(慶応2年12月25日に自刃している)
結局、賠償金は大洲藩に引き渡されずうやむやになった
(いろは丸事件 補足)
・慶応2年8月ごろ、大洲藩士 国島六左衛門は本来、銃器購入の藩命を受けていたが、独断でオランダ商人ボードインから蒸気船を購入した。
・蒸気船の購入には藩の裁可が必要であったが、それを得ていないことから大洲藩名義とすることができなかったため、薩摩藩名義で購入した。これが「いろは丸」である。
そのときに周旋したのが、薩摩藩士の五代才助と龍馬だった。
・慶応2年11月には、いろは丸は正式に大洲藩船と認められるものの、国島六左衛門は代金の調達ができなかったため、責任を負って慶応2年12月25日に切腹した。
・後藤象二郎は大洲藩にいろは丸の借用を申し入れ、慶応3年4月8日にいろは丸は長崎へ入港した。
・4月19日深夜、龍馬以下の海援隊士がいろは丸に乗り込み大坂へ向けて長崎を出港した。
そして、4月23日午後11時ごろ讃州箱ノ崎沖、備後灘の六島の2キロ手前ほどに達したとき、紀州藩船 明光丸と衝突した。
・いろは丸の乗員、乗客は全員明光丸に乗り移り、いろは丸は明光丸に曳航されて鞆港(広島県福山市)へ向かったが、途中でいろは丸は沈没した。
・五代才助の調停により土佐藩から大洲藩へいろは丸の賠償金として、船価35630両の1割引きの金額(32617両)が年賦で支払われることになった。
・支払いの第1回目は10月に予定されていたが、それが実行されたかどうか土佐藩、大洲藩ともに記録はない(大洲藩が受け取った形跡がない)
・船を購入した国島六左衛門は慶応2年12月に自刃し、海援隊長の龍馬も殺害され、関係者がいなくなってしまった。
・結局、いろは丸の賠償金は大洲藩に届かず、その行方はうやむやになってしまった。
・賠償金の一部を岩崎弥太郎が横領したという説がある
・岩崎弥太郎は後に三菱財閥を起こすが、その資金の出所はどこにあるのだろうか。
岩崎弥太郎のような下級藩士がどのようにしてその資金を得たのであろうか。
・龍馬はいろは丸で竹島(現在の鬱陵島)へ渡航しようとしていた
その前、吉田松陰が竹島開拓を計画していた
(八策)
・慶応3年(1867)6月9日 後藤象二郎と共に土佐藩船 夕顔丸で長崎を出港し、兵庫へ向かう船中で「八策」を提示した。筆記したのは長岡謙吉
・「船中八策」という言葉が用いられるようになったのは、昭和元年(1926年)刊行の「坂本龍馬関係文書」(岩崎鏡川 編)による。
・8項目では金銀の交換率を外国と均一化させるべきとしている
(薩土盟約)
・慶応3年(1867)6月22日 京都三本木の料亭吉田屋にて薩土盟約が成立。
薩摩からは小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵、
土佐からは後藤象二郎、福岡藤次など、龍馬、中岡も加わる
・龍馬は京都三条通り河原町の「酢屋」を宿としていた。
・酢屋は海援隊の京都詰め所だった。
・龍馬が岩倉具視に初めて会ったのは、慶応3年6月25日
(イカルス号事件)
・慶応3年(1867)7月6日 長崎の丸山遊郭のある町で英国軍艦イカルス号の水兵
ロバート・フォードとジョン・ホッチングスが殺害され、海援隊士に犯行の疑いがかけられた。
・犯人は福岡藩士、金子才吉(藩船 大鵬丸の乗組員)だった。
(最後の帰宅)
・慶応3年(1867)9月14日 オランダ商人ハットマンからライフル銃1300挺購入の契約を結ぶ
・ハットマン商社との契約書のサインは「才谷梅太郎」となっている
・15日、芸州藩船 震天丸に小銃を積み込み、18日長崎を出港。
100挺は広瀬屋と鋏屋の両人に担保として預け、200挺は上方へ送り、1000挺は土佐藩に買い取らせた
・23日、龍馬は土佐に下船、9月28日 文久2年の脱藩以来5年半ぶりに自宅に帰る(最後の帰宅となる)
・土佐藩から「大義料」として50両を下された。(土佐藩が龍馬の存在意義を認めたということ)20両を乙女に与えた
(大政奉還)
・慶応3年(1867)10月3日 後藤象二郎が大政奉還建白書を老中 板倉勝静へ提出
・10月9日 龍馬は大坂より京都へ上り、「酢屋」を宿とする(酢屋の主人は中川嘉兵衛)
・10月13日 龍馬は酢屋(龍馬が京都の海援隊本部とした)から近江屋(土佐藩の御用商人)に宿を代える(近江屋の主人は井口新助)
・10月14日 慶喜が大政奉還を上奏(二条城二の丸御殿の大広間一の間二の間で)
・10月14日 尾崎三良、中島作太郎らが近江屋に集まり、「新官制擬定書」と称されることとなる職制案を協議
・その草案が「史談会速記録」に発表されている。
・「史談会速記録」の「参議」の候補者に「坂本」と龍馬の名前があり、龍馬が「世界の海援隊でもやらんかな」(千頭清臣の「坂本龍馬」所収の「逸話一束」で紹介されたエピソード)と語ることなどない。
・お龍は「外国の隅々まで残らず廻ってみとう御座います」と語っている(「反魂香」)
・龍馬は「役人になるのはおれは否じゃ」と語った(「千里駒後日譚」)
・慶応3年(1867)10月15日 大政奉還勅許
・慶応3年(1867)10月11日ごろ、龍馬は後藤象二郎にあてて「銀座移転論(江戸の銀座を京師に移し候事)」を述べた手紙を記した。
貨幣の鋳造権さえ握ることができれば、大政奉還はなくても構わないとした
・10月17日、薩摩の吉井幸輔が近江屋より薩摩藩邸への移転を進言
・徳川政権の幕引きは265年目のこと(1603年から1867年まで)
(龍馬暗殺)
・慶応3年(1867)33歳 11月15日 近江屋(しょうゆ屋)で中岡慎太郎と共に襲われ死亡
・龍馬が土蔵の一室に潜伏していた事実はない。(「井口新之助談話」以外には土蔵について何も触れていない)
・11月15日
午後3時ごろ、龍馬は福岡藤次を訪れたが、不在だったため、5時ごろ再訪する
帰りぎわに、福岡の愛人「白拍子のおかよ」は「自分の下宿に行かぬか」と龍馬に誘われるが、同行していない。
・近江屋の母屋の2階で中岡と語り合っているところへ、宮地彦三郎(海援隊士)が訪れる。龍馬と中岡は2階から階下の宮地を立ち寄るように誘ったが、宮地は下宿に帰る
・午後7時ごろ菊屋峰吉が近江屋へやってくる
・岡本健三郎も顔を出す
・このとき、近江屋には新助夫婦とふたりの子供、そして龍馬、中岡、藤吉、峰吉、岡本の5人がいた。
・近江屋の2階に上がった刺客は、京都見廻組の佐々木只三郎、今井信郎、渡辺篤、世良敏郎(刀の鞘の持ち主)の4人であった。
・近江屋の2階には、菊屋峰吉もいた。峰吉は明かり取りから脱出した。
今井は「六畳の方には書生が三人おって…逃げてしまいました」、渡辺は「命を助かりし者、これは十三、四くらいの給仕か」と下僕の藤吉以外の誰かがいたという。
・菊屋峰吉が「鶏肉」を買いに行ったというのは、峰吉の自己申告のみであって、現場から逃走したことを隠すためのうそであろう。
・現場に残された下駄は、「瓢亭」のものではなく、「中村屋」と「かい々堂」のもの
下駄は刺客の遺留品ではなく、下駄がどこのものかはどうでもいいことである
刺客が下駄をはいて現場に向かうはずがないし、わざわざご丁寧に履物を脱いで家に上がらないだろう
・2、3日前より風邪をひいていたという様子もうかがえない
・当日の天候は、前夜から雨でいったん晴れたものの、午後からは降ったり止んだりし、雨が止み、夜には晴天となった
・今井信郎の談話は、「近畿評論」5月号(明治33年)の「坂本龍馬殺害人」において発表された
談話筆記者は「鶴城」とあって、岩田鶴城のことで、筆記したのは元甲陽鎮撫隊の結城無二三の長男で「甲斐新聞」の主筆をつとめていた結城礼一郎
初出は「甲斐新聞」だった。結城礼一郎が今井信郎の談話を「甲斐新聞」に書いた。(礼一郎が無理にたのんで聞かせてもらった)
そのとき、「甲斐新聞」の編集長が岩田鶴城だった。岩田鶴城が「甲斐新聞」をやめて京都へ帰ったとき、京都で発行されている雑誌「近畿評論」へ今井信郎の談話をそのまま寄稿した
・今井信郎によると
2階に上がったのは、佐々木只三郎、桂隼之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎で
階下で見張り役をつとめたのは、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎
・渡辺篤によると、龍馬の身辺を探っていた密偵は「増次郎」
・新選組を脱した大石鍬次郎は新選組による犯行とした
・今井信郎によると、佐々木只三郎が「松代藩」の名刺を差し出したとする
・佐々木只三郎は襲撃のあと「松林寺」に戻ったとされる
・佐々木只三郎の墓は「紀三井寺」にある
・佐々木只三郎は慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いで重傷を負い、1月11日に幕艦 富士山丸で治療をうけたものの、11日あるいは12日に艦内で死亡し、水葬に伏された
・龍馬が暗殺時に持っていた刀は「陸奥守吉行」
・「土藩坂本龍馬伝」には「直柔(龍馬)は大小三十四カ所、慎太郎は大小とも二十八カ所」傷を受けたとある。
・私見では、複数の刺客が同時に龍馬を襲ってメッタ切りにしたのだろう。
・龍馬は暗殺時にピストルをふところに持っていたかどうかは不明であるが、仮にピストルをふところに持っていたとしても、近い間合いでは切りつける刀のスピードにはかなわないだろう。ピストルを出して発砲する前に刀が先にとどく
・土佐藩邸から来た藩医は川村盈進
・近江屋に一番早くかけつけたのは嶋田庄作(土佐藩小監察)という
・徳川慶喜は暗殺現場にかけつけていない
・事件の前に伊藤甲子太郎から気をつけるよう忠告されていた
・伊藤甲子太郎は江戸で北辰一刀流の道場を経営していた
新選組から分離後は、孝明天皇御陵衛士として活動
龍馬暗殺の3日後 11月18日に新選組に暗殺された
・暗殺された近江屋の2階の部屋には「貼交屏風」という屏風があった。
向かって左側の上部には富士山図(狩野探幽)下部には、牡丹と猫の絵が描かれている
・この屏風は京都国立博物館が所蔵している
・しかし、この屏風に付いている血痕には不審な点があり、この屏風が実際に現場にあったものなのか疑問がある。
・また、寒椿と白梅の絵が描かれた掛け軸(板倉槐堂)があり、絵の上に長岡謙吉の追悼文が記されている。
・葬送は17日の夜間に行われた(東山の霊山に葬られた)
・18日には、中村半次郎が墓参している
・福岡孝弟(土佐藩参政)は現場にも葬儀にも出ていない
・印刷物で最も古い見廻組説は、城兼文の「文明史略」(明治7年)である
・近江屋の跡地は今は、コンビニ(サークルK)が建っている
・お龍が龍馬の死を知ったのは12月2日である(下関の伊藤九三方で)
佐柳高治によってもたらされた
その後、お龍は長府の三吉慎蔵に身柄を預けられた
(龍馬と刀剣)
・龍馬の遺品として中島作太郎から三吉慎蔵に贈られた刀は「正宗」の刀
・龍馬が暗殺される2日前、陸奥宗光から依頼されて鑑定した刀は「在銘の短刀」
・龍馬は刀剣について鑑定ができる程の知識と経験を積んでいた
・龍馬は「刀剣図考」という刀剣の専門書を読んでいた
・岩崎弥太郎の「筑紫鎗の短刀」を欲しがった
鎗の先を改造して短刀に直したもの。
弥太郎は譲らず、代わりに馬乗袴を仕立てて龍馬に贈った
・毛利敬親から「備前吉光の短刀」を拝領した
・文久2年(1862)3月脱藩時に持っていた刀は「肥前忠広」
・慶応3年(1867)に兄の権平から拝領した刀は「吉行」
吉行は土佐藩抱工。陸奥守吉行と銘を切る場合もある。丁子乱れの大坂風
暗殺時、鞘のまま受けたといわれる。
・慶応3年(1867)9月、最後の帰国をしたとき、梨地の大小(梨地塗りの鞘の大小)を差していた
(中岡慎太郎)
・「時勢論」は中岡慎太郎の政治論集
・中岡が龍馬のもとを訪ねたのは、宮川助五郎の身柄の引き取りについて相談するため
・菊屋という書肆に下宿していた。菊屋の息子が峰吉
・中岡が暗殺時に持っていた短刀は「信国」
・重傷だった中岡は「焼飯(焼きおにぎり)が食べたい」と言った
・中岡は17日に亡くなった(30歳)
(藤吉)
・元力士で雲井龍という四股名
・京都先斗町の料亭「武乃屋」の出前持ちとなって酢屋に出入りしていた
(田中光顕)
・田中光顕は陸援隊に加盟していた。近江屋へかけつけた。
維新後、龍馬のことを「闊達磊落」と評した
(下関の異名)
・「赤間関」「馬関」「穴戸」
(天満屋襲撃)
・慶応3年12月7日 海・陸援隊士ら16名が紀州藩の三浦休太郎を油小路花屋町の天満屋を襲撃した。
のちに僧侶になったのは、大江卓
襲撃側の死者は、中井庄五郎(十津川郷士)のみ。
(龍馬に関わる女性)
・長命だった順
西山加尾(明治42年 72歳で死去)→西村ツル(明治39年 66歳で死去)
千葉佐那子(明治29年 59歳で死去)→坂本乙女(明治22年 49歳で死去)
寺田屋お登勢(明治10年 47歳で死去)
(銅像)
・桂浜の龍頭岬に建つ龍馬像を制作した彫刻家は「本山白雲」
昭和3年5月27日、高知県青年により建立
・5月27日は「海軍記念日」だった
明治38年5月27日、日本海海戦で日本海軍連合艦隊(東郷平八郎司令長官)がロシアのバルチック艦隊を破ったことから
・平成元年、長崎の風頭公園に龍馬像が建立された(制作は山崎和国)
「龍馬の銅像建つうで会」
・京都の円山公園には龍馬と中岡慎太郎の2人の銅像が建立されている(川本直水が昭和37年に再建した2代目のもの、制作者は菊池一雄)
「坂本・中岡両先生銅像建設会」が初代銅像を建設するため、資金集めを目的に出版されたのが「雋傑坂本龍馬」
・「船中八策」の石碑が建つのは、高知県安芸郡芸西村
・室戸岬の中岡慎太郎の銅像も本山白雲の制作
・本山白雲の師匠は高村光雲
・高村光雲は上野公園の西郷隆盛像を制作
・京都にはお龍像が建っていない
・平成7年、高知県檮原町に建立された「維新の門」の群像に入っていないのは
中岡慎太郎のもの
(映画など)
・牧野省三があげた、映画が成功するための3要素は
1筋(ストーリーがおもしろい脚本)2ヌケ(ヌケるような映像の明るさ)
3動作(演技力とそれを引き出す演出力)
・舞台俳優 1声 2顔 3姿
・台本 根本→正本→脚本(明治20年前後から)
・「殺陣」の標記は新国劇の澤田正二郎らが考えた当て字である
・出演者がいないのは「出トチ」という
・「裏方」はもともとは貴人の妻の敬称だった
・緞帳ラインから手前(客席側)を「表」、奥(舞台側)を「裏」と総称する
・表が仕事場になる入場券売場、入場券もぎり、客席案内、営業、宣伝の人々、製作者(プロデューサー)は表方
・舞台監督、大道具、小道具、照明、音響、化粧、衣装、楽屋係などを裏方という
舞台監督は裏方総責任者
・出演者、作家、演出家は表方でも裏方でもない