(2)古代ギリシア世界 2 ポリスの時代 1
〔1〕ポリスの誕生
・前8世紀前半ごろからポリスが出現しはじめるが、ミケーネ時代とは異質のポリスがどのようにして成立したのか、その経緯は同時代の文字による記録がないため、謎である。
・ポリスはアクロポリスと呼ばれる丘の上に守護神を祀る神殿を建て、丘の麓にこの守護神への信仰をともにする人々が寄り集まって形成された共同体国家であり、絶対的権力を行使する支配者は存在していなかった。
・アクロポリス周辺には共同体成員たち(市民)が集落を作り、その一画には、諸事を決定する集会の場所(アゴラ)があった。
・市民は政治と軍事を共同で担う。
・市民は男性に限られ、貴族からしだいに平民たちにも政治への参加の道が開かれていった。
・古代ギリシア人は多数のポリスにそれぞれ属し、統一国家を形成することはなかった。
・前8世紀なかばごろ、フェニキア文字を借用してギリシア文字が考案された。
・初期のポリスは貴族が政治の実権を掌握する貴族政だった。
〔2〕植民活動 ギリシア世界の拡大
・前8世紀なかばごろから、ギリシア人は地中海各地に進出し、あらたなポリスを建設する、植民活動をはじめた。前750年ごろから前550年ごろまでのほぼ200年間は大植民地時代と呼ばれている。
・ビザンティオン、シチリア島のシュラクサイ、ネアポリス(現ナポリ)、マッサリア(現マルセイユ)などの植民市が知られる。
・植民活動は人口増加による土地や食糧の不足が主要因であったので、多くは農地を求めて移住した。金属資源を求めたものもあった。
・植民市は、経済的にも政治的にも本国(母市)から独立した共同体として出発した。
★オリュンピア競技会
・ポリスはそれぞれ固有の守護神を祀り、ギリシア人は守護神のほかにも多数の神々を信仰の対象としていたが、ゼウス、ヘラ、アテナなどの全ギリシア的な神々への信仰を共有していた。オリュンピア、デルフォイ、ネメアなど全ギリシア的な神域では各地から人々が集まり祭典が催された。
・前776年オリュンピア(ゼウスを祀る)で競技をともなう祭典が開催された。(旅行家パウサニアスの伝えるところによると、オリュンピアで競技が催されたのは前776年よりもはるか昔のことだという)
・オリュンピア祭では競技会のほか、音楽演奏や詩、文学作品の朗読、哲学者の会議、演説なども行われたという。
・競技会の起源についての説としては、「せめて4年に一度くらいは武器を捨て平和の象徴となる祭典を開こう」という、戦争の一時停止提案がある。
・前776年がオリンピックの起源とされる。
・前776年に第1回オリュンピア祭の競技会が始められて以来、ローマ時代の4世紀後半にいたるまで(オリュンピアで最後に行われたのは389年か393年)4年に1回オリュンピアで競技会が開催された。
・はじめは近隣の有力者たちが参加するだけだったが、しだいに広がり、前7世紀には全ギリシア的な祭典になった。
・競技会が行われる年は、その数か月前から、ギリシア世界にオリンピア休戦が宣言された(どの程度守られたかは不明)。しかし、ポリス同士の争いは絶えることはなかった。
・競技に先立って、選手たちは審判員の前に集まり、正々堂々と戦うことを誓った。
・競技会は主にスタディオンと呼ばれる4万人も観客を収容できるという巨大な競技場で行われた。
・はじめは徒競争のみの1日間の競技会だったが、やがて長距離走、レスリング(全身にオリーブ油を塗ったという)、ボクシング(手に革ひもを巻きつけて行われた危険なもので死者まで出ることもあったという)、パンクラティオン(かむこと、眼に手を入れることなど以外なんでもありの格闘技)、5種競技(幅跳び(フルートの伴奏つきで行われた)、円盤投げ(円盤は石で後に金属製となった)、槍投げ、徒競争、レスリングの5種目)、戦車競走、競馬などが加えられ7日間となった。
・参加できる選手はギリシア人の男子のみ(奴隷と女性は除外された)で、戦車競走や競馬の御者以外、選手はすべて全裸だった。非ギリシア人は見物は許されたが参加することはできなかった。
・オリュンピア競技会の勝者は大きな名声と富を得た。
・オリュンピア競技会はもともとプロの競技会だった。
ある勝者は500ドラクマ(当時の兵士の2年分の給料に相当する)を支給された。
・優勝者は各地に呼ばれ、それぞれの大会で出場して技を披露してそのつど謝礼金を得ていた。(ある勝者は、年間3万ドラクマもの賞金を得ていたという)
・賞金ほしさに多くの青年たちがオリュンピア競技会出場を目指したのである。
〔3〕スパルタ
・前750年ごろに成立した。
・ドーリス人がラコニア地方に4つの集落をなして定住し、近隣のアカイア人を支配下におさめ、さらにアカイア人の最大拠点アミュクライを攻略し、第5の集落として併合し、5つの集落をもってスパルタが成立した。
・スパルタの正式な国名はラケダイモニオイという。
・スパルタは、スパルタ市民、ペリオイコイ(周辺住民)、ヘイロタイの3身分からなる。
・市民は生産労働には携わらず、政治と軍事に専念する。
・ペリオイコイは自由身分であるが、参政権はなく、しかし従軍義務を負う。
・ヘイロタイは隷属民としてスパルタ市民一人一人に与えられた土地(クレーロス)において農業に従事し、収穫物の一部を市民に貢納していた。
・貧富の差の拡大を防ぐ必要から経済を停滞させるため、金銀の貨幣を廃止し鉄の貨幣のみを使用した。また鎖国政策をとり、市民間の政治的権力をできるだけ平等なものにしようとした。
・共同食事に参加できる者がスパルタ市民だった。
市民は毎日の夕食を、各自食糧をもちよって共同でとった。
・共同食事参加は市民の義務であり、食糧を用意できない場合は市民の資格を失う。
・国の最高決定機関は民会だったが、別に長老会があって、民会の議案を前もって審議するだけではなく、民会の決定を拒否する権限ももっていた。
・長老会は2名の王と28名の長老の30名で構成されていた。
・この2名の王は戦争の指揮権と国の祭司を司る権限をもっているのみで、スパルタが王国であったことを意味してはいない。
★スパルタ教育
・男児は生後、レスケーと呼ばれる集会所で部族の長老たちによる審査を受け、健康と体力に恵まれず不適格と判定された赤ん坊は、山中の穴の中に捨てられた。
・男子は7歳になると親元から離され、29歳まで集団生活に入る。
・裸足で歩き、12歳になれば1年中下着なしで1枚の上着だけですごす。
・盗みや殺人も訓練に入っていた。
・食事はみすぼらしく、腹を満たすためにはどこかから盗んでくるしかない。盗みに失敗した者は、不注意、不手際ということで鞭で打ちすえられた。うまく盗むには狡猾に用心深くやらなければならない。盗みを通じて、眠っている者や油断している者をうまく攻撃することを学ぶ。そう仕向けるためにあえて食事の量を抑えられていた。
・殺人のほうは、誰を殺してもいいわけではなく、対象はヘイロタイに限られていた。
短剣と食糧だけを持たされて送りだされると、昼間は人目につかないように身をかくし、夜になるとヘイロタイを捕えて殺した。この殺人の罪を免除するためか、監督官はまずヘイロタイに宣戦布告するならわしだったという。
・20歳になると兵士として軍隊に編入されたが、集団生活は30歳になるまで続いた。
・20歳をすぎて結婚しても集団生活を続けなければならないため、30歳になるまでは別居生活だった。
・女子の場合は、おそらく結婚するまでは親元にとどまっただろうが、健康な子どもを産むために、競走、格闘、円盤投げ、槍投げの訓練を受けた。
・スパルタにおいては、男は兵士として、女は兵士を産む役割を求められたのである。
・スパルタは徹底した軍事教育のため、なんの文化も発展することはなかった。
・スパルタ教育はあまりにもむごく、当時のギリシアにあっても異常な制度と受け止められ、他にまねをするポリスは1つもなかった。
〔1〕ポリスの誕生
・前8世紀前半ごろからポリスが出現しはじめるが、ミケーネ時代とは異質のポリスがどのようにして成立したのか、その経緯は同時代の文字による記録がないため、謎である。
・ポリスはアクロポリスと呼ばれる丘の上に守護神を祀る神殿を建て、丘の麓にこの守護神への信仰をともにする人々が寄り集まって形成された共同体国家であり、絶対的権力を行使する支配者は存在していなかった。
・アクロポリス周辺には共同体成員たち(市民)が集落を作り、その一画には、諸事を決定する集会の場所(アゴラ)があった。
・市民は政治と軍事を共同で担う。
・市民は男性に限られ、貴族からしだいに平民たちにも政治への参加の道が開かれていった。
・古代ギリシア人は多数のポリスにそれぞれ属し、統一国家を形成することはなかった。
・前8世紀なかばごろ、フェニキア文字を借用してギリシア文字が考案された。
・初期のポリスは貴族が政治の実権を掌握する貴族政だった。
〔2〕植民活動 ギリシア世界の拡大
・前8世紀なかばごろから、ギリシア人は地中海各地に進出し、あらたなポリスを建設する、植民活動をはじめた。前750年ごろから前550年ごろまでのほぼ200年間は大植民地時代と呼ばれている。
・ビザンティオン、シチリア島のシュラクサイ、ネアポリス(現ナポリ)、マッサリア(現マルセイユ)などの植民市が知られる。
・植民活動は人口増加による土地や食糧の不足が主要因であったので、多くは農地を求めて移住した。金属資源を求めたものもあった。
・植民市は、経済的にも政治的にも本国(母市)から独立した共同体として出発した。
★オリュンピア競技会
・ポリスはそれぞれ固有の守護神を祀り、ギリシア人は守護神のほかにも多数の神々を信仰の対象としていたが、ゼウス、ヘラ、アテナなどの全ギリシア的な神々への信仰を共有していた。オリュンピア、デルフォイ、ネメアなど全ギリシア的な神域では各地から人々が集まり祭典が催された。
・前776年オリュンピア(ゼウスを祀る)で競技をともなう祭典が開催された。(旅行家パウサニアスの伝えるところによると、オリュンピアで競技が催されたのは前776年よりもはるか昔のことだという)
・オリュンピア祭では競技会のほか、音楽演奏や詩、文学作品の朗読、哲学者の会議、演説なども行われたという。
・競技会の起源についての説としては、「せめて4年に一度くらいは武器を捨て平和の象徴となる祭典を開こう」という、戦争の一時停止提案がある。
・前776年がオリンピックの起源とされる。
・前776年に第1回オリュンピア祭の競技会が始められて以来、ローマ時代の4世紀後半にいたるまで(オリュンピアで最後に行われたのは389年か393年)4年に1回オリュンピアで競技会が開催された。
・はじめは近隣の有力者たちが参加するだけだったが、しだいに広がり、前7世紀には全ギリシア的な祭典になった。
・競技会が行われる年は、その数か月前から、ギリシア世界にオリンピア休戦が宣言された(どの程度守られたかは不明)。しかし、ポリス同士の争いは絶えることはなかった。
・競技に先立って、選手たちは審判員の前に集まり、正々堂々と戦うことを誓った。
・競技会は主にスタディオンと呼ばれる4万人も観客を収容できるという巨大な競技場で行われた。
・はじめは徒競争のみの1日間の競技会だったが、やがて長距離走、レスリング(全身にオリーブ油を塗ったという)、ボクシング(手に革ひもを巻きつけて行われた危険なもので死者まで出ることもあったという)、パンクラティオン(かむこと、眼に手を入れることなど以外なんでもありの格闘技)、5種競技(幅跳び(フルートの伴奏つきで行われた)、円盤投げ(円盤は石で後に金属製となった)、槍投げ、徒競争、レスリングの5種目)、戦車競走、競馬などが加えられ7日間となった。
・参加できる選手はギリシア人の男子のみ(奴隷と女性は除外された)で、戦車競走や競馬の御者以外、選手はすべて全裸だった。非ギリシア人は見物は許されたが参加することはできなかった。
・オリュンピア競技会の勝者は大きな名声と富を得た。
・オリュンピア競技会はもともとプロの競技会だった。
ある勝者は500ドラクマ(当時の兵士の2年分の給料に相当する)を支給された。
・優勝者は各地に呼ばれ、それぞれの大会で出場して技を披露してそのつど謝礼金を得ていた。(ある勝者は、年間3万ドラクマもの賞金を得ていたという)
・賞金ほしさに多くの青年たちがオリュンピア競技会出場を目指したのである。
〔3〕スパルタ
・前750年ごろに成立した。
・ドーリス人がラコニア地方に4つの集落をなして定住し、近隣のアカイア人を支配下におさめ、さらにアカイア人の最大拠点アミュクライを攻略し、第5の集落として併合し、5つの集落をもってスパルタが成立した。
・スパルタの正式な国名はラケダイモニオイという。
・スパルタは、スパルタ市民、ペリオイコイ(周辺住民)、ヘイロタイの3身分からなる。
・市民は生産労働には携わらず、政治と軍事に専念する。
・ペリオイコイは自由身分であるが、参政権はなく、しかし従軍義務を負う。
・ヘイロタイは隷属民としてスパルタ市民一人一人に与えられた土地(クレーロス)において農業に従事し、収穫物の一部を市民に貢納していた。
・貧富の差の拡大を防ぐ必要から経済を停滞させるため、金銀の貨幣を廃止し鉄の貨幣のみを使用した。また鎖国政策をとり、市民間の政治的権力をできるだけ平等なものにしようとした。
・共同食事に参加できる者がスパルタ市民だった。
市民は毎日の夕食を、各自食糧をもちよって共同でとった。
・共同食事参加は市民の義務であり、食糧を用意できない場合は市民の資格を失う。
・国の最高決定機関は民会だったが、別に長老会があって、民会の議案を前もって審議するだけではなく、民会の決定を拒否する権限ももっていた。
・長老会は2名の王と28名の長老の30名で構成されていた。
・この2名の王は戦争の指揮権と国の祭司を司る権限をもっているのみで、スパルタが王国であったことを意味してはいない。
★スパルタ教育
・男児は生後、レスケーと呼ばれる集会所で部族の長老たちによる審査を受け、健康と体力に恵まれず不適格と判定された赤ん坊は、山中の穴の中に捨てられた。
・男子は7歳になると親元から離され、29歳まで集団生活に入る。
・裸足で歩き、12歳になれば1年中下着なしで1枚の上着だけですごす。
・盗みや殺人も訓練に入っていた。
・食事はみすぼらしく、腹を満たすためにはどこかから盗んでくるしかない。盗みに失敗した者は、不注意、不手際ということで鞭で打ちすえられた。うまく盗むには狡猾に用心深くやらなければならない。盗みを通じて、眠っている者や油断している者をうまく攻撃することを学ぶ。そう仕向けるためにあえて食事の量を抑えられていた。
・殺人のほうは、誰を殺してもいいわけではなく、対象はヘイロタイに限られていた。
短剣と食糧だけを持たされて送りだされると、昼間は人目につかないように身をかくし、夜になるとヘイロタイを捕えて殺した。この殺人の罪を免除するためか、監督官はまずヘイロタイに宣戦布告するならわしだったという。
・20歳になると兵士として軍隊に編入されたが、集団生活は30歳になるまで続いた。
・20歳をすぎて結婚しても集団生活を続けなければならないため、30歳になるまでは別居生活だった。
・女子の場合は、おそらく結婚するまでは親元にとどまっただろうが、健康な子どもを産むために、競走、格闘、円盤投げ、槍投げの訓練を受けた。
・スパルタにおいては、男は兵士として、女は兵士を産む役割を求められたのである。
・スパルタは徹底した軍事教育のため、なんの文化も発展することはなかった。
・スパルタ教育はあまりにもむごく、当時のギリシアにあっても異常な制度と受け止められ、他にまねをするポリスは1つもなかった。