おっちゃんの世界史の栞 9 古代エジプト文明
(1)古代オリエント世界 3
3 古代エジプト文明
〈エジプト〉
★「エジプトはナイルの賜」
・ギリシアの歴史家ヘロドトスの「歴史」の第2巻第5節に
「エジプトの国土に関する彼らの話はもっともであると私にも思われた。というのは、いやしくも物の解る者ならば、たとえ予備知識を持たずとも一見すれば明らかなことであるが、今日ギリシア人が通航しているエジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物ともいうべきもので、エジプトにとっては新しく獲得した土地なのである。…」(岩波文庫より)とある。
・この言葉は、エジプトのデルタ地帯はナイル川の沖積作用によって新しく獲得された土地であると、エジプトの国土について述べたものである。
・「エジプトはナイルの賜」という表現は「古代エジプト文明はナイル川の所産である」という意味に文明論的に拡大解釈されたものである。
・この言葉は、ヘロドトスの先輩ヘカタイオスがすでにそのエジプト史に使用した言葉であるという。
・ナイル川の定期的な増水が運び堆積する泥土が肥沃でありこれを利用して農耕文明が発達した、とよく説明されるが、実際にはこの泥土には肥料成分は少なく、水中の沈殿物の含有量も最大1トン当たり約4キロで、コロラド川やインダス川の約2分の1である。
・アメリカの塩度基準では、ナイル川の水質は灌漑用水として決してすぐれたものではないとされる。
・現実にナイル川の増水は豊かな収穫をもたらしてきたが、その原因はナイル川が運ぶ泥土や水ではなく、増水によって耕地が回復し、豊かな太陽があり、住民の絶え間ない労働作業があったたまものである。
〈古代エジプトの時代区分〉
・前3世紀のエジプト人の神官マネトーによる分類が基本的に今も使われている。
・マネトーは「エジプト史」において、30の王朝に時代区分した。
・現在では、大きくは古王国時代、中王国時代、新王国時代と区分する。
〈エジプト史の流れ〉
〔1〕初期王朝時代(第1~第2王朝)
〔2〕古王国時代(第3~第6王朝)
〔3〕第1中間期(第7~第10王朝)
〔4〕中王国時代(第11~第13王朝)
〔5〕第2中間期(第13~第17王朝)
〔6〕新王国時代(第18~第20王朝)
〔7〕第3中間期(第21~第25王朝)
〔8〕末期王朝時代(第26~第30王朝、第2次ペルシア支配時代)
〔9〕マケドニア支配時代
〔10〕プトレマイオス朝時代
〔11〕ローマ帝国領時代
〔12〕ビザンツ帝国領時代
〔13〕イスラーム時代
〔14〕オスマン朝支配時代
〔15〕ムハンマドアリー朝時代
〔16〕イギリス領時代
〔17〕エジプト王国
〔18〕エジプト共和国
〔19〕アラブ連合共和国
〔20〕エジプト・アラブ共和国
〔1〕初期王朝時代(第1~第2王朝) 前3150~2686年
〈第1王朝〉 前3150~2890年
ナルメル 前3150~3050年
ホル・アハ
・メンフィスを建設。
ジェル → ジェト → デン → アネジブ → セメルケト
カア
〈第2王朝〉 前2890~2686年
ヘテプセケムイ
ラネブ → ニネチェル → セト・ペルイブセン
カセケムイ
〔2〕古王国時代(第3~第6王朝)前2686~2181年
・エジプト文明の基礎ができた。
・ピラミッドの建造
〈第3王朝〉 前2686~2613年
サナクト
ジェセル
・ジェセル王はアスワン付近まで版図を拡大し、後にここがエジプトの南境界になる。
・メンフィス近郊のサッカラに「階段ピラミッド」を築いた。
・この階段ピラミッドおよびその周辺の葬祭複合体を建設したのは、ジェセル王の宰相であった建築家のイムヘテプである。
・この階段ピラミッド複合体は世界最古のすべて石造りの建築物である。
・ジェセル王の葬祭複合体はピラミッドを中心として、全体で霊魂と死後の領域を作ろうというもの
・階段ピラミッドは、まず通常のマスタバ墳として建設されたが、その後増改築されて、マスタバの上にマスタバを重ねていくうちに、6段からなる高さ62mのピラミッドができあがった。
★イムヘテプ
・書記、医者、神官、天文学者などとして尊敬され、後に神格化された。
・プトレマイオス朝からローマ支配の時代にかけて、建築と医学の神として崇拝された。
セケムケト → カーバー
フニ
・フニ王のメイドウムの「崩れピラミッド」は、幾何学的に真正なピラミッドを造ろうとした最初のもの。
・メイドウムの「崩れピラミッド」は、ピラミッド複合体の設計の模範になった。
〈第4王朝〉 前2613~2498年
スネフェル
クフ
・「ギザの大ピラミッド」を建築した。
・創建時の高さは146.6mで、頂部9m分を失い、現在は137.5mである。
・クフ王の大ピラミッドは19世紀まで世界で最も高い人工建築物であった。
★クフ王の大ピラミッド
・傾斜角 51°52′
・4面はそれぞれ東西南北に向かっている
・建設事業の中心となったのはクフ王の従兄弟ヘムオンであった。
・建造方法は謎である。
★ピラミッド
・ピラミッド内部からファラオの遺体は発見されていない。
・ピラミッド建設は農閑期の公共事業だった。
・ピラミッド建設の労働者たちは、喜んでこの労働に従事した。
・労働者には衣食住すべてが支給され、専用の住宅に住み、ビールを飲み、ニンニクも支給された。
ジェドエフラー
カフラー
・カフラー王は、ギザの第2ピラミッドとスフィンクスを建設した。
メンカウラー
・メンカウラー王は、ギザの第3ピラミッドを建設した。
シェプセスカフ
〈第5王朝〉 前2498~2345年
ウセルカフ
サフラー → ネフェルイルカラー → シェプセスカラー → ネフェルエフラー → ニウセルラー → メンカウホル → ジェドカラー
ウナス
〈第6王朝〉 前2345~2181年
テティ
ペピ1世 → メルエンラー → ペピ2世
・ペピ2世の時代に第6王朝の権力がメンフィスから失われ、古王国時代は終焉を迎える。
〔3〕第1中間期(第7~第10王朝) 前2181~2040年
・中央集権は瓦解し、地方勢力が乱立抗争し、社会混乱が続く。
〈第7、8王朝〉 前2181~2060年
ウアジカラー → カカラー
〈第9、10王朝〉 前2160~2040年
メリイブラー → メリカラー → カネフェルラー → ネブカウラー
〔4〕中王国時代(第11~第13王朝)前2040~1782年
・テーベの土侯が統一王朝を再興する。
〈第11王朝〉 前2134~1991年
アンテフ1世 → アンテフ2世 → アンテフ3世
メンチュヘテプ2世 → メンチュヘテプ3世 → メンチュヘテプ4世
・中王国時代は第11王朝4代目の王メンチュヘテプ2世治世下で、エジプトの再統一がなったとき始まった。
・アンテフ1世から3世は、実際には州侯以上の存在ではなかった。
〈第12王朝〉 前1991~1782年
アメンエムハト1世
・この時代以降、テーベの主神であるアメン神が優勢になる。
・アメン信仰が頂点に達するのは第21王朝のころ。
・アメンエムハト1世は新しい中心地を築き、イチタウイと命名したがその場所はわかっていない。
・アメンエムハト1世は、共同統治のシステムを導入した。
センウセレト1世 → アメンエムハト2世 → センウセレト2世
センウセレト3世
・センウセレト3世は交易ルートやヌビアの鉱物資源への道を確保するための一連の戦いをヌビアにしかけた。
・ヌビア遠征で得た富の多くは、神殿の建設や改修にあてられた。
アメンエムハト3世 → アメンエムハト4世 → セベクネフェル女王
〈第13王朝〉 前1782~1650年
ウガエフ → アメニ・アンテフ4世 → ホル → セベクヘテプ2世 → ケンジェル → セベクヘテプ3世 → ネフェルヘテプ1世 → セベクヘテプ4世 → アイ → ネフェルヘテプ2世
〔5〕第2中間期(第13~第17王朝)
〈第14王朝〉 ネヘシ
〈第15王朝〉ヒクソス王朝 前1663~1555年
・ヒクソスは第15王朝を建てた。
・ヒクソスとは「砂漠の王子」を意味するヘカ・カスウトに由来する
シェシ → ヤコブヘル → キアン → アペピ1世 → アペピ2世
〈第16王朝〉ヒクソス王朝 前1663~1555年
アナテル → ヤコブアアム
〈第17王朝〉 前1663~1570年
・ヒクソスの王たちがエジプト北部を制する一方で、新しくエジプト人による第17王朝がテーベに興った。
・第17王朝初期の王たちはヒクソスの権力にはっきり挑戦することはさけたので、両国の間は微妙な休戦状態にあった。
セベクエムサフ2世 → アンテフ7世 → タア1世 → タア2世 → カーメス
〔6〕新王国時代(第18~第20王朝)前1570~1070年
・ヒクソスがエジプトから放逐され、イアフメス1世が第18王朝を創始し、新王国時代の幕が開いた。
・この500年の時代のファラオは神のごとき存在であった。
・新王国時代の主だったファラオのミイラが19世紀に発見された。
・ミイラはテーベのデイル・アル ハバリのカシェ(隠し場所)と、王家の谷のアメンヘテプ2世王墓のカシェに保存されていた。
〈第18王朝〉 前1570~1293年
イアフメス1世
・イアフメス1世はヒクソスを放逐した。
アメンヘテプ1世
トトメス1世 → トトメス2世 → ハトシェプスト女王 → トトメス3世
・ハトシェプスト女王は勝気な女性で、幼王トトメス3世との共同統治の2年目にはトトメス3世を廃する方針をとり始める。
・ハトシェプスト女王はデイル・アル ハバリの絶壁を背にした窪地に自らの華麗な葬祭殿を建設する。
・ハトシェプスト葬祭殿は女王の執事の建築家センエンムトの監督で築かれた。
トトメス3世
・ハトシェプスト女王が没し、王権をにぎったトトメス3世は継母ハトシェプスト女王の記憶を記念建造物から消し去ることにとりかかった。ハトシェプスト葬祭殿で、レリーフを破壊し、多数の銅像を壊して神殿の前の石切り場に投げ込んだ。
・トトメス3世は古代エジプトのナポレオンと呼ばれた。
・トトメス3世は西アジアへ17回の遠征を行った。
アメンヘテプ2世 → トトメス4世 → アメンヘテプ3世
アメンヘテプ4世(アクエンアテン) → スメンクカラー
★アクエンアテン王
・アメンヘテプ4世は治世初期にアクエンアテン(アテン神のしもべ)という名前に改名した。
・アケト・アテン(現在のテル・アル アマルナ)への遷都
・アメン・ラー神にかえてアテン神を至高の神とする
・アマルナ芸術の開花
★アテン神の崇拝
・アクエンアテンは、太陽の円盤として表わされるアテン神を唯一神として礼拝しようとした。アテン神それ自体は新しい神ではない。
・太陽の円盤から放射される光の先端に信者を護る手があり、アンク(生命のシンボル)を表わすヒエログリフ文字をつかむ
・この新教義を信奉したのは、社会の上層部、高級官僚だけであったようである。この新都にあっても一般の人々は旧来の宗教をまもっていた。
ツタンカーメン(トゥトアンクアメン)
・トゥトアンクアメンとはアメン神の生きる似姿の意味。
トゥトアンクアテンからトゥトアンクアメンと改名した
・ツタンカーメン王は、1922年11月王家の谷で墓が発見されて脚光をあびるまで、第18王朝末期の影の薄い存在であった。
・ツタンカーメン王はミイラを分析したところ、17歳ぐらいで死亡したことが判明した。
・ツタンカーメン王の死因はわからない。
・ハワード・カーターがツタンカーメン王墓を発見したとき、全くの手つかずではなかった。墓泥棒に荒されていなかったのは玄室だけだった。
・墓は二度荒されており、その後すぐに封印された。
・初回の盗掘では、大部分の黄金と宝石が持ち去られた。
・2回目の盗掘では、香油や軟膏が盗まれた。
アイ → ホルエムヘブ
〈第19王朝〉 前1293~1185年
ラメセス1世
セティ1世
・セティ1世は新しい正統の時代を開始したとの意味で「誕生の再現者」という称号を受けた。
・セティ1世の13年間の統治の間に、エジプトの美術と文化は高度の成熟度と洗練度に達した。
★セティ1世の主要建築
・カルナク神域のアメン大神殿の大列柱室(102m×53mの広間に134本の巨大な柱が立つ)
・オシリス信仰の中心地アビドスには、セティ1世葬祭殿、オシレイオン、父ラメセス1世に捧げたラメセス1世の小神殿
・テーベの王家の谷の王墓(王家の谷の墳墓のうち最も壮麗で長く深く掘られたもの)
・セティ1世のミイラは現存する王のミイラの中で最も保存がよい
ラメセス2世(ラメセス大王)
・ラメセス2世ほど多くの神殿を建造し、多くの巨像やオベリスクを建てたファラオはいない。
・ラメセス2世は2人の正妃ネフェルトイリとイシスネフェルトほか多くの妃を持ち、100人以上の子を持った。
★ヒッタイトとの戦い
・前1286年カデシュの戦い
・ヒッタイトの王ハットウシリ3世は、毎年のようにエジプトと小競り合いをする無意味を悟って、和平協定を提案した。その結果、前1259年に相互不可侵と援助を内容とする協定が成立した。
・両王家の間で親書や贈り物のやりとりがあり、親密な関係を結び、前1246年、ハットウシリ3世は娘をラメセス2世と結婚させる。
★建設者ラメセス2世
・ラメセス2世の最大の建設事業はヌビアのアブ・シンベル大神殿(天然砂岩をくりぬいて作られた)である。
・4体のラメセス2世の大座像(高さ18m)が2対で正面入口の両脇に並ぶ。
メルエンプタハ → アメンセメス → セティ2世 → サプタハ → タウセルト女王
〈第20王朝〉 前1185~1070年
セトナクト → ラメセス3世
・ラメセス3世はリビア人や「海の民」の侵入を撃退した。
★海の民
・「海の民」はいくつかの民族の集まりで、ペリシテ人、チェケル(トロイ人?)、シェケレシュ(シチリア人?)ダルダノ人などが含まれる。
ラメセス4世 → ラメセス5世 → ラメセス6世 → ラメセス7世 → ラメセス8世 → ラメセス9世 → ラメセス10世 → ラメセス11世
〔7〕第3中間期(第21~第25王朝)前1069~525年
・古王国、中王国、新王国の最盛期を経て、エジプト文明は衰退の道をたどり始める。
・前1000年頃、エジプトはほとんど破産状態になった。
〈大司祭国家(テーベ)〉 前1080~945年
ヘリホル → ピアンキ → パネジェム1世 → マサハルタ → メンケペルラー → スメンデス2世 → パネジェム2世 → プスセンネス3世
〈第21王朝(タニス)〉 前1069~945年
スメンデス1世 → アメンエムニスウ → プスセンネス1世 → アメンエムオペト → 大オソルコン → サアメン → プスセンネス2世
・ヘリホルはラメセス11世に対して優位に立ち、上エジプトのテーベにアメン大司祭が支配する国を作った。
・ラメセス11世の死後、スメンデス1世が王を名乗り下エジプトのデルタから統治した。
デルタの首都はスメンデス1世の統治中に、ペル・ラメセスからタニスに移転した。
〈第22王朝(ブバスティス朝/リビア人の王朝)〉 前945~715年
シェションク1世 → オソルコン1世 → シェションク2世 → タケロト1世 → オソルコン2世 → タケロト2世 → シェションク3世 → パミ → シェションク5世 → オソルコン4世
((テーベ))ハルスィエセ
・シェションク1世はその後200年間エジプトを統治したリビア人の最初のファラオ
・シェションク1世は前925年にユダ王国とイスラエル王国を破る
〈第23王朝(レオントポリス/リビア人の王朝)〉 前818~715年
ペディバステト → シェションク4世 → オソルコン3世 → タケロト3世 → ルドアメン → イウプト
((ヘラクレオポリス))ペフチャウアバステト
((ヘルモポリス))ニムロト
〈第24王朝(サイス)〉 前727~715年
テフナクト → バクエンレネフ
〈第25王朝(ヌビア/クシュ王朝)〉 前747~656年
ピアンキ → シャバカ → シャバタカ → タハルカ → タヌトアメン
〔8〕末期王朝時代(第26~第30王朝、第2次ペルシア支配時代)前525~332年
・アッシリアによる断続的なエジプト占領のために、第25王朝(ヌビア朝)の終わりと第26王朝(サイス朝)の始まりは重なっている。
〈第26王朝(サイス朝)〉 前664~525年
プサムテク1世 → ネカウ(ネコ)2世 → プサムテク2世 → ウアフイブラー → イアフメス2世 → プサムテク3世
★復活したエジプトの繁栄
・プサムテク1世の治世中に政治は安定し伝統的な宗教が復興した。美術様式も古王国や中王国時代への回帰傾向がみられた。
・エジプトは地中海の経済圏に組み込まれることによって貿易も持ち直し、国家としての威信も回復した。
・ネカウ(ネコ)2世はイオニア系ギリシア人を雇ってエジプト海軍を作った。
エジプト人は基本的に海を好んでいなかったので、これは画期的なことだった。
・ネカウ(ネコ)2世はスエズ運河を2500年先取りして、ナイル川のペルシウム支流と紅海の間に航行可能な運河を掘らせた。
・ヘロドトスは前450年頃、第26王朝後半の混乱から1世紀後にエジプトに赴いた。
〈第27王朝(第1次ペルシア支配)〉 前525~404年
カンビュセス2世 → ダレイオス1世 → クセルクセス → アルタクセルクセス1世 → ダレイオス2世 → アルタクセルクセス2世
・前525年、アケメネス朝ペルシアはエジプトを占領した。
・カンビュセス2世もペルシアの他の王も、エジプトには総督をおき、遠い首都スーサから統治した。
・ダレイオス1世はネカウ2世が工事を始めたペルシウムから紅海への運河を完成させた。
・ダレイオス1世の治世は基本的にはエジプトにとって繁栄の時代だった。
・前490年、ペルシアはマラトンの戦いでギリシアに敗れた。
・前480年にはサラミスの海戦でペルシアはギリシアに敗れた。
・ペルシアの最後の2人の王(ダレイオス2世とアルタクセルクセス2世)の治世期には、エジプトはアケメネス朝の内紛を利用して、独立に近い体制を得る。
〈第28王朝〉 前404~399年
アミルタイオス
〈第29王朝〉 前399~380年
ネフアアルド1世 → ハコル
・第29王朝では首都はサイスからメンデスに移された。
〈第30王朝〉 前380~343年
ナクトネブエフ(ネクタネボ1世) → ジェドホル → ナクトホルエブ(ネクタネボ2世)
〈第2次ペルシア支配時代〉 前343~332年
アルタクセルクセス3世 → アルセス → ダレイオス3世
・前343年、エジプトがペルシアに降伏したとき、最後のエジプト人ファラオ、ネクタネボ2世の治世は終わった。
・こののち、エジプト人がエジプトを統治するのは、実に2300年後のこととなる。
・1952年7月23日、ナーセルら自由将校団が、軍司令部、放送局、空港などを占拠。午前7時、ラジオはクーデターの成功を告げた。(エジプト革命)
〔9〕マケドニア支配時代 前332~305年
アレキサンダー大王(アレキサンダー3世) → フィリッポス・アリダイオス → アレキサンダー4世
・アレキサンダー大王は前333年、イッソスの戦いでダレイオス3世に勝利した後、前332年にエジプトに入った。シーワ・オアシスまでアメン神の神託を受けに赴き、神の子、ファラオとして喝采を浴びた。エジプト人は彼を救世主とみなした。
・アレキサンダー大王はナイルの河口にアレキサンドリアを建てた。
〔10〕プトレマイオス朝時代 前305~30年
プトレマイオス1世 → プトレマイオス2世 → プトレマイオス3世 → プトレマイオス4世 → プトレマイオス5世 → プトレマイオス6世
・アレキサンダー大王が前323年に没したときプトレマイオスはエジプト総督を務めることになった。
・プトレマイオスはアレキサンダー大王の遺体を手中にして政治的、宗教的に優位に立った。
・前305年、プトレマイオスはエジプトの王であることを宣言した。
・プトレマイオス家は外来の王家であるが、エジプトにおいてはファラオとしてふるまった。
・プトレマイオス1世の治世下で神殿や町の建設が続々と始まった。
・プトレマイオス1世はアレキサンドリアにムセイオン(王立研究所)やアレキサンドリア図書館を建設した。
・古代世界の7不思議の1つファロス(灯台)はプトレマイオス2世の時代に完成した。
プトレマイオス7世 → プトレマイオス8世 → プトレマイオス9世 → プトレマイオス10世 → プトレマイオス11世 → プトレマイオス12世 → ベレニケ4世女王 → クレオパトラ7世(女王クレオパトラ) → プトレマイオス15世(カエサリオン)
・エジプトは17歳のクレオパトラ7世(プトレマイオス12世の娘)に、彼女の弟のプトレマイオス13世と結婚するという条件つきで譲られた。
・アレキサンドリアでカエサルはクレオパトラとプトレマイオス13世の2人に会見し、カエサルはクレオパトラを気に入った。
・クレオパトラは弟のプトレマイオス14世と結婚し、同時にカエサルの愛人となった。
・クレオパトラはカエサルの子、プトレマイオス15世(カエサリオン)を生んだ。
・前30年クレオパトラは自殺し、カエサリオンも処刑されプトレマイオス朝は滅んだ。
★クレオパトラ(7世)
・クレオパトラが絶世の美女であったことを証拠だてるものは何もない。
・クレオパトラに関する史料は何も残っていない。ミイラもパピルスも画像もない。
・クレオパトラとして一般的に用いられているコインの肖像は、クレオパトラではなくアントニウスの妻オウタヴィアの横顔である。
★「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の様子は変わっていただろう」について
・これには二重の誤解がある。
・第1に、フランスの哲学者パスカルの「パンセ」には「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら…」などとは書かれていない。
・パスカルは鼻が「短い(court)」と書いているので、「クレオパトラの鼻がもう少し短かったら…」というのが正確な表現である。
・鼻が低いという表現は日本独特のもので、欧米では鼻の高さが高いことは美人の条件ではない。
・さらに第2に、「パンセ」に書かれているクレオパトラは、有名なクレオパトラ7世のことではない。
・パスカルの文章の問題の部分は「人間の空虚であることを充分に知ろうと思うならば、恋愛の原因と結果を考えてみさえすればいい。その原因は「何だか私には分からないもの」(コルネイユ)であり、またその結果は恐るべきものである。「この何だか私には分からないもの」、ほとんどが認められないようなこの些細なものが、全地を、王侯を、軍隊を、全世界を動かすのである。クレオパトラの鼻、それがもう少し短かったら、大地の全表面は変わっていたであろう」とある。
・ここにあるコルネイユは、劇作家のコルネイユによる悲劇「ロドギュス」のことをいっており、その主人公の名はクレオパトラだった。その主人公はシリアの女王クレオパトラ・テアのことであり、カエサルを誘惑したクレオパトラとは別人である。
〔11〕ローマ帝国領時代 前30~紀元395
・ローマはエジプトを征服したが、エジプトを通常の属州にはしなかった。
・オクタヴィアヌス(前27年にアウグストゥスとなりローマの初代皇帝となった)はエジプトを自分個人の領地とし、皇帝直属の長官が統治した。
・エジプトはパンとなる穀物をローマにもたらした。
・ローマ領時代のエジプトは繁栄を極めた。
・ファイユーム地方に多くの新しい都市が建設され、古代ローマ風の浴場、公会堂(バシリカ)などが建設された。
(1)古代オリエント世界 3
3 古代エジプト文明
〈エジプト〉
★「エジプトはナイルの賜」
・ギリシアの歴史家ヘロドトスの「歴史」の第2巻第5節に
「エジプトの国土に関する彼らの話はもっともであると私にも思われた。というのは、いやしくも物の解る者ならば、たとえ予備知識を持たずとも一見すれば明らかなことであるが、今日ギリシア人が通航しているエジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物ともいうべきもので、エジプトにとっては新しく獲得した土地なのである。…」(岩波文庫より)とある。
・この言葉は、エジプトのデルタ地帯はナイル川の沖積作用によって新しく獲得された土地であると、エジプトの国土について述べたものである。
・「エジプトはナイルの賜」という表現は「古代エジプト文明はナイル川の所産である」という意味に文明論的に拡大解釈されたものである。
・この言葉は、ヘロドトスの先輩ヘカタイオスがすでにそのエジプト史に使用した言葉であるという。
・ナイル川の定期的な増水が運び堆積する泥土が肥沃でありこれを利用して農耕文明が発達した、とよく説明されるが、実際にはこの泥土には肥料成分は少なく、水中の沈殿物の含有量も最大1トン当たり約4キロで、コロラド川やインダス川の約2分の1である。
・アメリカの塩度基準では、ナイル川の水質は灌漑用水として決してすぐれたものではないとされる。
・現実にナイル川の増水は豊かな収穫をもたらしてきたが、その原因はナイル川が運ぶ泥土や水ではなく、増水によって耕地が回復し、豊かな太陽があり、住民の絶え間ない労働作業があったたまものである。
〈古代エジプトの時代区分〉
・前3世紀のエジプト人の神官マネトーによる分類が基本的に今も使われている。
・マネトーは「エジプト史」において、30の王朝に時代区分した。
・現在では、大きくは古王国時代、中王国時代、新王国時代と区分する。
〈エジプト史の流れ〉
〔1〕初期王朝時代(第1~第2王朝)
〔2〕古王国時代(第3~第6王朝)
〔3〕第1中間期(第7~第10王朝)
〔4〕中王国時代(第11~第13王朝)
〔5〕第2中間期(第13~第17王朝)
〔6〕新王国時代(第18~第20王朝)
〔7〕第3中間期(第21~第25王朝)
〔8〕末期王朝時代(第26~第30王朝、第2次ペルシア支配時代)
〔9〕マケドニア支配時代
〔10〕プトレマイオス朝時代
〔11〕ローマ帝国領時代
〔12〕ビザンツ帝国領時代
〔13〕イスラーム時代
〔14〕オスマン朝支配時代
〔15〕ムハンマドアリー朝時代
〔16〕イギリス領時代
〔17〕エジプト王国
〔18〕エジプト共和国
〔19〕アラブ連合共和国
〔20〕エジプト・アラブ共和国
〔1〕初期王朝時代(第1~第2王朝) 前3150~2686年
〈第1王朝〉 前3150~2890年
ナルメル 前3150~3050年
ホル・アハ
・メンフィスを建設。
ジェル → ジェト → デン → アネジブ → セメルケト
カア
〈第2王朝〉 前2890~2686年
ヘテプセケムイ
ラネブ → ニネチェル → セト・ペルイブセン
カセケムイ
〔2〕古王国時代(第3~第6王朝)前2686~2181年
・エジプト文明の基礎ができた。
・ピラミッドの建造
〈第3王朝〉 前2686~2613年
サナクト
ジェセル
・ジェセル王はアスワン付近まで版図を拡大し、後にここがエジプトの南境界になる。
・メンフィス近郊のサッカラに「階段ピラミッド」を築いた。
・この階段ピラミッドおよびその周辺の葬祭複合体を建設したのは、ジェセル王の宰相であった建築家のイムヘテプである。
・この階段ピラミッド複合体は世界最古のすべて石造りの建築物である。
・ジェセル王の葬祭複合体はピラミッドを中心として、全体で霊魂と死後の領域を作ろうというもの
・階段ピラミッドは、まず通常のマスタバ墳として建設されたが、その後増改築されて、マスタバの上にマスタバを重ねていくうちに、6段からなる高さ62mのピラミッドができあがった。
★イムヘテプ
・書記、医者、神官、天文学者などとして尊敬され、後に神格化された。
・プトレマイオス朝からローマ支配の時代にかけて、建築と医学の神として崇拝された。
セケムケト → カーバー
フニ
・フニ王のメイドウムの「崩れピラミッド」は、幾何学的に真正なピラミッドを造ろうとした最初のもの。
・メイドウムの「崩れピラミッド」は、ピラミッド複合体の設計の模範になった。
〈第4王朝〉 前2613~2498年
スネフェル
クフ
・「ギザの大ピラミッド」を建築した。
・創建時の高さは146.6mで、頂部9m分を失い、現在は137.5mである。
・クフ王の大ピラミッドは19世紀まで世界で最も高い人工建築物であった。
★クフ王の大ピラミッド
・傾斜角 51°52′
・4面はそれぞれ東西南北に向かっている
・建設事業の中心となったのはクフ王の従兄弟ヘムオンであった。
・建造方法は謎である。
★ピラミッド
・ピラミッド内部からファラオの遺体は発見されていない。
・ピラミッド建設は農閑期の公共事業だった。
・ピラミッド建設の労働者たちは、喜んでこの労働に従事した。
・労働者には衣食住すべてが支給され、専用の住宅に住み、ビールを飲み、ニンニクも支給された。
ジェドエフラー
カフラー
・カフラー王は、ギザの第2ピラミッドとスフィンクスを建設した。
メンカウラー
・メンカウラー王は、ギザの第3ピラミッドを建設した。
シェプセスカフ
〈第5王朝〉 前2498~2345年
ウセルカフ
サフラー → ネフェルイルカラー → シェプセスカラー → ネフェルエフラー → ニウセルラー → メンカウホル → ジェドカラー
ウナス
〈第6王朝〉 前2345~2181年
テティ
ペピ1世 → メルエンラー → ペピ2世
・ペピ2世の時代に第6王朝の権力がメンフィスから失われ、古王国時代は終焉を迎える。
〔3〕第1中間期(第7~第10王朝) 前2181~2040年
・中央集権は瓦解し、地方勢力が乱立抗争し、社会混乱が続く。
〈第7、8王朝〉 前2181~2060年
ウアジカラー → カカラー
〈第9、10王朝〉 前2160~2040年
メリイブラー → メリカラー → カネフェルラー → ネブカウラー
〔4〕中王国時代(第11~第13王朝)前2040~1782年
・テーベの土侯が統一王朝を再興する。
〈第11王朝〉 前2134~1991年
アンテフ1世 → アンテフ2世 → アンテフ3世
メンチュヘテプ2世 → メンチュヘテプ3世 → メンチュヘテプ4世
・中王国時代は第11王朝4代目の王メンチュヘテプ2世治世下で、エジプトの再統一がなったとき始まった。
・アンテフ1世から3世は、実際には州侯以上の存在ではなかった。
〈第12王朝〉 前1991~1782年
アメンエムハト1世
・この時代以降、テーベの主神であるアメン神が優勢になる。
・アメン信仰が頂点に達するのは第21王朝のころ。
・アメンエムハト1世は新しい中心地を築き、イチタウイと命名したがその場所はわかっていない。
・アメンエムハト1世は、共同統治のシステムを導入した。
センウセレト1世 → アメンエムハト2世 → センウセレト2世
センウセレト3世
・センウセレト3世は交易ルートやヌビアの鉱物資源への道を確保するための一連の戦いをヌビアにしかけた。
・ヌビア遠征で得た富の多くは、神殿の建設や改修にあてられた。
アメンエムハト3世 → アメンエムハト4世 → セベクネフェル女王
〈第13王朝〉 前1782~1650年
ウガエフ → アメニ・アンテフ4世 → ホル → セベクヘテプ2世 → ケンジェル → セベクヘテプ3世 → ネフェルヘテプ1世 → セベクヘテプ4世 → アイ → ネフェルヘテプ2世
〔5〕第2中間期(第13~第17王朝)
〈第14王朝〉 ネヘシ
〈第15王朝〉ヒクソス王朝 前1663~1555年
・ヒクソスは第15王朝を建てた。
・ヒクソスとは「砂漠の王子」を意味するヘカ・カスウトに由来する
シェシ → ヤコブヘル → キアン → アペピ1世 → アペピ2世
〈第16王朝〉ヒクソス王朝 前1663~1555年
アナテル → ヤコブアアム
〈第17王朝〉 前1663~1570年
・ヒクソスの王たちがエジプト北部を制する一方で、新しくエジプト人による第17王朝がテーベに興った。
・第17王朝初期の王たちはヒクソスの権力にはっきり挑戦することはさけたので、両国の間は微妙な休戦状態にあった。
セベクエムサフ2世 → アンテフ7世 → タア1世 → タア2世 → カーメス
〔6〕新王国時代(第18~第20王朝)前1570~1070年
・ヒクソスがエジプトから放逐され、イアフメス1世が第18王朝を創始し、新王国時代の幕が開いた。
・この500年の時代のファラオは神のごとき存在であった。
・新王国時代の主だったファラオのミイラが19世紀に発見された。
・ミイラはテーベのデイル・アル ハバリのカシェ(隠し場所)と、王家の谷のアメンヘテプ2世王墓のカシェに保存されていた。
〈第18王朝〉 前1570~1293年
イアフメス1世
・イアフメス1世はヒクソスを放逐した。
アメンヘテプ1世
トトメス1世 → トトメス2世 → ハトシェプスト女王 → トトメス3世
・ハトシェプスト女王は勝気な女性で、幼王トトメス3世との共同統治の2年目にはトトメス3世を廃する方針をとり始める。
・ハトシェプスト女王はデイル・アル ハバリの絶壁を背にした窪地に自らの華麗な葬祭殿を建設する。
・ハトシェプスト葬祭殿は女王の執事の建築家センエンムトの監督で築かれた。
トトメス3世
・ハトシェプスト女王が没し、王権をにぎったトトメス3世は継母ハトシェプスト女王の記憶を記念建造物から消し去ることにとりかかった。ハトシェプスト葬祭殿で、レリーフを破壊し、多数の銅像を壊して神殿の前の石切り場に投げ込んだ。
・トトメス3世は古代エジプトのナポレオンと呼ばれた。
・トトメス3世は西アジアへ17回の遠征を行った。
アメンヘテプ2世 → トトメス4世 → アメンヘテプ3世
アメンヘテプ4世(アクエンアテン) → スメンクカラー
★アクエンアテン王
・アメンヘテプ4世は治世初期にアクエンアテン(アテン神のしもべ)という名前に改名した。
・アケト・アテン(現在のテル・アル アマルナ)への遷都
・アメン・ラー神にかえてアテン神を至高の神とする
・アマルナ芸術の開花
★アテン神の崇拝
・アクエンアテンは、太陽の円盤として表わされるアテン神を唯一神として礼拝しようとした。アテン神それ自体は新しい神ではない。
・太陽の円盤から放射される光の先端に信者を護る手があり、アンク(生命のシンボル)を表わすヒエログリフ文字をつかむ
・この新教義を信奉したのは、社会の上層部、高級官僚だけであったようである。この新都にあっても一般の人々は旧来の宗教をまもっていた。
ツタンカーメン(トゥトアンクアメン)
・トゥトアンクアメンとはアメン神の生きる似姿の意味。
トゥトアンクアテンからトゥトアンクアメンと改名した
・ツタンカーメン王は、1922年11月王家の谷で墓が発見されて脚光をあびるまで、第18王朝末期の影の薄い存在であった。
・ツタンカーメン王はミイラを分析したところ、17歳ぐらいで死亡したことが判明した。
・ツタンカーメン王の死因はわからない。
・ハワード・カーターがツタンカーメン王墓を発見したとき、全くの手つかずではなかった。墓泥棒に荒されていなかったのは玄室だけだった。
・墓は二度荒されており、その後すぐに封印された。
・初回の盗掘では、大部分の黄金と宝石が持ち去られた。
・2回目の盗掘では、香油や軟膏が盗まれた。
アイ → ホルエムヘブ
〈第19王朝〉 前1293~1185年
ラメセス1世
セティ1世
・セティ1世は新しい正統の時代を開始したとの意味で「誕生の再現者」という称号を受けた。
・セティ1世の13年間の統治の間に、エジプトの美術と文化は高度の成熟度と洗練度に達した。
★セティ1世の主要建築
・カルナク神域のアメン大神殿の大列柱室(102m×53mの広間に134本の巨大な柱が立つ)
・オシリス信仰の中心地アビドスには、セティ1世葬祭殿、オシレイオン、父ラメセス1世に捧げたラメセス1世の小神殿
・テーベの王家の谷の王墓(王家の谷の墳墓のうち最も壮麗で長く深く掘られたもの)
・セティ1世のミイラは現存する王のミイラの中で最も保存がよい
ラメセス2世(ラメセス大王)
・ラメセス2世ほど多くの神殿を建造し、多くの巨像やオベリスクを建てたファラオはいない。
・ラメセス2世は2人の正妃ネフェルトイリとイシスネフェルトほか多くの妃を持ち、100人以上の子を持った。
★ヒッタイトとの戦い
・前1286年カデシュの戦い
・ヒッタイトの王ハットウシリ3世は、毎年のようにエジプトと小競り合いをする無意味を悟って、和平協定を提案した。その結果、前1259年に相互不可侵と援助を内容とする協定が成立した。
・両王家の間で親書や贈り物のやりとりがあり、親密な関係を結び、前1246年、ハットウシリ3世は娘をラメセス2世と結婚させる。
★建設者ラメセス2世
・ラメセス2世の最大の建設事業はヌビアのアブ・シンベル大神殿(天然砂岩をくりぬいて作られた)である。
・4体のラメセス2世の大座像(高さ18m)が2対で正面入口の両脇に並ぶ。
メルエンプタハ → アメンセメス → セティ2世 → サプタハ → タウセルト女王
〈第20王朝〉 前1185~1070年
セトナクト → ラメセス3世
・ラメセス3世はリビア人や「海の民」の侵入を撃退した。
★海の民
・「海の民」はいくつかの民族の集まりで、ペリシテ人、チェケル(トロイ人?)、シェケレシュ(シチリア人?)ダルダノ人などが含まれる。
ラメセス4世 → ラメセス5世 → ラメセス6世 → ラメセス7世 → ラメセス8世 → ラメセス9世 → ラメセス10世 → ラメセス11世
〔7〕第3中間期(第21~第25王朝)前1069~525年
・古王国、中王国、新王国の最盛期を経て、エジプト文明は衰退の道をたどり始める。
・前1000年頃、エジプトはほとんど破産状態になった。
〈大司祭国家(テーベ)〉 前1080~945年
ヘリホル → ピアンキ → パネジェム1世 → マサハルタ → メンケペルラー → スメンデス2世 → パネジェム2世 → プスセンネス3世
〈第21王朝(タニス)〉 前1069~945年
スメンデス1世 → アメンエムニスウ → プスセンネス1世 → アメンエムオペト → 大オソルコン → サアメン → プスセンネス2世
・ヘリホルはラメセス11世に対して優位に立ち、上エジプトのテーベにアメン大司祭が支配する国を作った。
・ラメセス11世の死後、スメンデス1世が王を名乗り下エジプトのデルタから統治した。
デルタの首都はスメンデス1世の統治中に、ペル・ラメセスからタニスに移転した。
〈第22王朝(ブバスティス朝/リビア人の王朝)〉 前945~715年
シェションク1世 → オソルコン1世 → シェションク2世 → タケロト1世 → オソルコン2世 → タケロト2世 → シェションク3世 → パミ → シェションク5世 → オソルコン4世
((テーベ))ハルスィエセ
・シェションク1世はその後200年間エジプトを統治したリビア人の最初のファラオ
・シェションク1世は前925年にユダ王国とイスラエル王国を破る
〈第23王朝(レオントポリス/リビア人の王朝)〉 前818~715年
ペディバステト → シェションク4世 → オソルコン3世 → タケロト3世 → ルドアメン → イウプト
((ヘラクレオポリス))ペフチャウアバステト
((ヘルモポリス))ニムロト
〈第24王朝(サイス)〉 前727~715年
テフナクト → バクエンレネフ
〈第25王朝(ヌビア/クシュ王朝)〉 前747~656年
ピアンキ → シャバカ → シャバタカ → タハルカ → タヌトアメン
〔8〕末期王朝時代(第26~第30王朝、第2次ペルシア支配時代)前525~332年
・アッシリアによる断続的なエジプト占領のために、第25王朝(ヌビア朝)の終わりと第26王朝(サイス朝)の始まりは重なっている。
〈第26王朝(サイス朝)〉 前664~525年
プサムテク1世 → ネカウ(ネコ)2世 → プサムテク2世 → ウアフイブラー → イアフメス2世 → プサムテク3世
★復活したエジプトの繁栄
・プサムテク1世の治世中に政治は安定し伝統的な宗教が復興した。美術様式も古王国や中王国時代への回帰傾向がみられた。
・エジプトは地中海の経済圏に組み込まれることによって貿易も持ち直し、国家としての威信も回復した。
・ネカウ(ネコ)2世はイオニア系ギリシア人を雇ってエジプト海軍を作った。
エジプト人は基本的に海を好んでいなかったので、これは画期的なことだった。
・ネカウ(ネコ)2世はスエズ運河を2500年先取りして、ナイル川のペルシウム支流と紅海の間に航行可能な運河を掘らせた。
・ヘロドトスは前450年頃、第26王朝後半の混乱から1世紀後にエジプトに赴いた。
〈第27王朝(第1次ペルシア支配)〉 前525~404年
カンビュセス2世 → ダレイオス1世 → クセルクセス → アルタクセルクセス1世 → ダレイオス2世 → アルタクセルクセス2世
・前525年、アケメネス朝ペルシアはエジプトを占領した。
・カンビュセス2世もペルシアの他の王も、エジプトには総督をおき、遠い首都スーサから統治した。
・ダレイオス1世はネカウ2世が工事を始めたペルシウムから紅海への運河を完成させた。
・ダレイオス1世の治世は基本的にはエジプトにとって繁栄の時代だった。
・前490年、ペルシアはマラトンの戦いでギリシアに敗れた。
・前480年にはサラミスの海戦でペルシアはギリシアに敗れた。
・ペルシアの最後の2人の王(ダレイオス2世とアルタクセルクセス2世)の治世期には、エジプトはアケメネス朝の内紛を利用して、独立に近い体制を得る。
〈第28王朝〉 前404~399年
アミルタイオス
〈第29王朝〉 前399~380年
ネフアアルド1世 → ハコル
・第29王朝では首都はサイスからメンデスに移された。
〈第30王朝〉 前380~343年
ナクトネブエフ(ネクタネボ1世) → ジェドホル → ナクトホルエブ(ネクタネボ2世)
〈第2次ペルシア支配時代〉 前343~332年
アルタクセルクセス3世 → アルセス → ダレイオス3世
・前343年、エジプトがペルシアに降伏したとき、最後のエジプト人ファラオ、ネクタネボ2世の治世は終わった。
・こののち、エジプト人がエジプトを統治するのは、実に2300年後のこととなる。
・1952年7月23日、ナーセルら自由将校団が、軍司令部、放送局、空港などを占拠。午前7時、ラジオはクーデターの成功を告げた。(エジプト革命)
〔9〕マケドニア支配時代 前332~305年
アレキサンダー大王(アレキサンダー3世) → フィリッポス・アリダイオス → アレキサンダー4世
・アレキサンダー大王は前333年、イッソスの戦いでダレイオス3世に勝利した後、前332年にエジプトに入った。シーワ・オアシスまでアメン神の神託を受けに赴き、神の子、ファラオとして喝采を浴びた。エジプト人は彼を救世主とみなした。
・アレキサンダー大王はナイルの河口にアレキサンドリアを建てた。
〔10〕プトレマイオス朝時代 前305~30年
プトレマイオス1世 → プトレマイオス2世 → プトレマイオス3世 → プトレマイオス4世 → プトレマイオス5世 → プトレマイオス6世
・アレキサンダー大王が前323年に没したときプトレマイオスはエジプト総督を務めることになった。
・プトレマイオスはアレキサンダー大王の遺体を手中にして政治的、宗教的に優位に立った。
・前305年、プトレマイオスはエジプトの王であることを宣言した。
・プトレマイオス家は外来の王家であるが、エジプトにおいてはファラオとしてふるまった。
・プトレマイオス1世の治世下で神殿や町の建設が続々と始まった。
・プトレマイオス1世はアレキサンドリアにムセイオン(王立研究所)やアレキサンドリア図書館を建設した。
・古代世界の7不思議の1つファロス(灯台)はプトレマイオス2世の時代に完成した。
プトレマイオス7世 → プトレマイオス8世 → プトレマイオス9世 → プトレマイオス10世 → プトレマイオス11世 → プトレマイオス12世 → ベレニケ4世女王 → クレオパトラ7世(女王クレオパトラ) → プトレマイオス15世(カエサリオン)
・エジプトは17歳のクレオパトラ7世(プトレマイオス12世の娘)に、彼女の弟のプトレマイオス13世と結婚するという条件つきで譲られた。
・アレキサンドリアでカエサルはクレオパトラとプトレマイオス13世の2人に会見し、カエサルはクレオパトラを気に入った。
・クレオパトラは弟のプトレマイオス14世と結婚し、同時にカエサルの愛人となった。
・クレオパトラはカエサルの子、プトレマイオス15世(カエサリオン)を生んだ。
・前30年クレオパトラは自殺し、カエサリオンも処刑されプトレマイオス朝は滅んだ。
★クレオパトラ(7世)
・クレオパトラが絶世の美女であったことを証拠だてるものは何もない。
・クレオパトラに関する史料は何も残っていない。ミイラもパピルスも画像もない。
・クレオパトラとして一般的に用いられているコインの肖像は、クレオパトラではなくアントニウスの妻オウタヴィアの横顔である。
★「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の様子は変わっていただろう」について
・これには二重の誤解がある。
・第1に、フランスの哲学者パスカルの「パンセ」には「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら…」などとは書かれていない。
・パスカルは鼻が「短い(court)」と書いているので、「クレオパトラの鼻がもう少し短かったら…」というのが正確な表現である。
・鼻が低いという表現は日本独特のもので、欧米では鼻の高さが高いことは美人の条件ではない。
・さらに第2に、「パンセ」に書かれているクレオパトラは、有名なクレオパトラ7世のことではない。
・パスカルの文章の問題の部分は「人間の空虚であることを充分に知ろうと思うならば、恋愛の原因と結果を考えてみさえすればいい。その原因は「何だか私には分からないもの」(コルネイユ)であり、またその結果は恐るべきものである。「この何だか私には分からないもの」、ほとんどが認められないようなこの些細なものが、全地を、王侯を、軍隊を、全世界を動かすのである。クレオパトラの鼻、それがもう少し短かったら、大地の全表面は変わっていたであろう」とある。
・ここにあるコルネイユは、劇作家のコルネイユによる悲劇「ロドギュス」のことをいっており、その主人公の名はクレオパトラだった。その主人公はシリアの女王クレオパトラ・テアのことであり、カエサルを誘惑したクレオパトラとは別人である。
〔11〕ローマ帝国領時代 前30~紀元395
・ローマはエジプトを征服したが、エジプトを通常の属州にはしなかった。
・オクタヴィアヌス(前27年にアウグストゥスとなりローマの初代皇帝となった)はエジプトを自分個人の領地とし、皇帝直属の長官が統治した。
・エジプトはパンとなる穀物をローマにもたらした。
・ローマ領時代のエジプトは繁栄を極めた。
・ファイユーム地方に多くの新しい都市が建設され、古代ローマ風の浴場、公会堂(バシリカ)などが建設された。