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おっちゃんの世界史の栞 21 帝政ローマ/2

2010-09-26 13:09:25 | HKT48 AKB48
(3)古代ローマ世界 5 帝政ローマ/2

〔初期の皇帝たち〕
◎ユリウス・クラウディウス朝 前31~68年
◎69年の内乱
◎フラウィウス朝 69~96年

◎ユリウス・クラウディウス朝 前31~68年
☆アウグストゥス帝 在位 前27~14年
☆ティベリウス帝 在位 14~37年
☆カリグラ帝 在位 37~41年

☆クラウディウス帝 在位 41~54年
☆ネロ帝 在位 54~68年


〈クラウディウス帝〉 在位 41~54年
・41年1月24日、カリグラ帝の暗殺から24時間足らずで、カリグラ帝の叔父のクラウディウス(50歳)が皇帝に担ぎ出された
・クラウディウス帝はまず、親衛隊に金を出すのと引き換えにカリグラ帝暗殺犯人を引き渡させ、処刑した
・人心をつかむため、犯罪記録を焼き、カリグラ帝が多量にたくわえていた毒薬を処分した
・カリグラ帝が没収した金品の多くを元の持ち主に戻し、カリグラ帝が定めた「遺産は皇帝に譲渡すべし」という法律を無効にした
・解放奴隷層から有能な人材を選び、大規模な公共工事を企画させた
・カリグラ帝が作り始めた2本の水道「クラウディウス水道」(全長約70km)と「アニオ・ノウス水道」(全長約90km)を完成させた。
 街の手前でそれらは上下2層の水道橋となり、プラエネステ街道をまたぐ地点で二重アーチをもつプラエネステ門(現在はマッジョーレ門)を形作っている
・クラウディウス帝は穀物不足を防ぐため2大プロジェクトに着手している
 1つは、フキヌス湖を干拓して農地をふやすことだったが、失敗に終わった
 もう1つは、テヴェレ河口にオスティアの港を建設することだった。
 アレクサンドリアのファロス島の大灯台をまねた高い塔を建てたという

・クラウディウス帝の4度目の妻はカリグラ帝の妹アグリッピナ(姪にあたる)だった
・アグリッピナはクラウディウス帝の実子ブリタニクスをさしおいて、自分が前の結婚でもうけた息子ルキウスを帝位につけようとする
・50年、アグリッピナはルキウスを正式にクラウディウス帝の養子にさせ、「ネロ」という名を与えられた
・54年、アグリッピナはクラウディウス帝を毒殺し、ネロ(16歳)が帝位を継ぐ

〈ネロ帝〉 在位 54~68年
・ネロの即位式の演説は、セネカによって書かれたものだった
・セネカはクラウディウス帝時代にコルシカ島へ流されていたが、アグリッピナに呼びもどされ、ネロの家庭教師として仕えていた。

・59年ネロは母アグリッピナを殺害した
・ネロは海難事故に見せかけて殺害しようとしたが、失敗した
・結局、ネロが派遣した刺客の手にかかって死んだ

★パンとサーカス
・「パンとサーカス」は諷刺詩人ユウェナリスの
 「かつて権力や勢威や軍事などのすべてに力を注いでいた市民たちも、いまでは萎縮して、たった二つのことばかりに気をもんでいる。パンとサーカスだけを」の文句に由来する
・パンは、民衆への穀物の配給を意味するが、それとともに、ぶどう酒や貨幣が分配されることもあった
・「サーカス」は曲芸をさすのではなく、円形競技場の楕円形コースを意味するキルクス(circus)の英語読みで、戦車競走や剣闘士興行、演劇などの見世物娯楽である

・1世紀のローマで、5分の1、約25万人の市民が生活保護を受け、格安あるいは無料で穀物の配給を受けていたという
・見世物は帝政時代になると、ローマ市民に対する皇帝の人気取りに利用された
・劇場公演が終わったところで、皇帝からの贈り物(籠に入った異国の鳥、属州からの珍味、中身のつまった宝石箱、高価な衣類、土地や住宅の引換券など)が観衆にばらまかれる
・見世物の興行は、民衆の気分を推しはかる機会を提供した
・観衆は闘技場で勇敢に戦った死刑囚の恩赦を要求することもあった
・劇場では、税の引き下げとか法の廃止とかさまざまな要求が申し立てられた
・見世物は社交の場であり、風俗を取り締まる造営官の属吏が入口で服装をチェックした

・見世物が催されている間は祝日だった
・アウグストゥス帝の治下で祝祭日は年に65日だったが、ネロ治下で100日を越え、つづく数世紀で176日に増えた

・ネロ自身が舞台に上り、竪琴を弾き歌を唄った
・ネロの舞台では、皇帝が昼夜ぶっとおしで唄っている間、観衆は座席にかしこまって傾聴し、劇場から出ることは絶対に禁止された
・そのため、老人が疲れはてて観客席で死んでしまったり、妊婦が観客席で出産する騒ぎとなった
・ネロが出場すれば、どの競技でも皇帝が優勝する(落馬しても)
・ネロはことのほか戦車競走が好きで、当初はパラティウムの庭園で観客なしに戦車を御していたが、のちにローマ最大のキルクス・マキシムス競技場に公然と出場することになる。
・キルクス・マキシムス競技場でさえ、呼び物のレースを見ようと押しかける大群を収容しきれず、騎士身分と元老院身分だけが予約席を確保した

・ネロは剣闘士試合を提供したが、1人の剣闘士も罪人すら殺させなかった
しかし、観衆は血を見たがったので民衆の要求に応えるほかになかった
・観衆が剣闘士の生死を決定した。親指を上にたてれば生と自由、下にすれば死を意味する

★ローマ炎上
・64年7月19日、大競技場のかたわらの、主にギリシアやアジアの商人が住んでいた木造バラックから出火し、街中に燃え広がった
・ローマは神殿、宮殿、広場や劇場をそなえた世界都市であったが、その裏側に民衆の賃貸共同住宅があった(小部屋の壁は異常に薄かった)
・当時のローマの街路は狭くて入りくんでいて、家並も不規則で、店舗、屋台、仕事場、居酒屋、連れこみ宿が軒を並べていた
・家並み一つ全焼するような火事は珍しくなかった

・火はパラティウムの丘に燃え広がり、ネロの宮殿も全焼した
・大火は7日間にわたり、ローマ市14区のうち3区がすっかり焼け野原になり、焼け残ったのは4区だけだった

・火災発生時、ネロはローマから45キロ離れたアンティウムに滞在中だったが、急いでローマに戻った
・ネロは一時的な避難所として、自分の庭園やマルスの野、公共の建物を開放して被災者を収容した
・オスティア港の倉庫や近郊の町から食糧を運ばせ、穀物の価格を引き下げた
・鎮火後は、ネロは膨大な費用を投じ、まったく新しい都市計画によってローマ市の再建に取り組み、市街地は整然と区画され、道幅を広げ、建物の高さを制限し、耐火性の石材の使用を義務づけ、さらに新築の家には消火道具を備えることが義務づけられた
・1戸建てや集合住宅を建設する者に資金を貸し付けた

・ところが、「ネロは、火災のさなか、宮廷内の自分専用の舞台に立ち(のちには、マエケナスの宮殿の塔から燃えさかる都をながめ、とか、パラティウムの丘の一番高いところに上り)太古の不幸になぞらえて、舞台衣装を着て「トロイアの陥落」の詩を歌っていた」という噂が広まったという
・パラティウムの宮殿に自分専用の舞台があったが、そこは炎に包まれていたし、パラティウムの丘も炎に包まれていたので、そこから火災をながめることはできなかった
・パラティウムにある舞台衣装は燃えてしまったので、どこから舞台衣装を持ってきたのだろうか
・ネロがかりにローマに火をつけて、もっと美しく再建するつもりだったとしても、大競技場や自分の宮殿に放火するはずはなく、宮殿に収集されていた芸術作品を安全な場所に運ばせていたはずである
・ネロは火災の最大の被災者だった

・ネロが放火の罪をキリスト教徒になすりつけたとの説も初期のキリスト教徒作家は触れておらず、のちに付け加えられた解釈であり、疑問がある

★ネロの死
・ネロは68年6月9日、30歳で自殺した
・遺骸は冒涜されることもなく、斑岩でこしらえた棺と大理石の祭壇が祀られ、石の柵の奥に安置された
・ネロは元老院には憎まれたが、庶民には人気があり、その後何年も、墓には春と夏に花が供えられた