ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

おっちゃんの世界史の栞 20 帝政ローマ/1

2010-09-05 17:20:48 | HKT48 AKB48
(3)古代ローマ世界 4 帝政ローマ/1

〔初期の皇帝たち〕
◎ユリウス・クラウディウス朝 前31~68年
◎69年の内乱
◎フラウィウス朝 69~96年


◎ユリウス・クラウディウス朝 前31~68年
☆アウグストゥス帝 在位 前27~14年
☆ティベリウス帝 在位 14~37年
☆カリグラ帝 在位 37~41年
☆クラウディウス帝 在位 41~54年
☆ネロ帝 在位 54~68年


〈アウグストゥス帝〉 在位 前27~14年
・前63年9月23日、ローマで生まれた。ガイウス・オクタヴィアヌス
・前44年ユリウス・カエサルの養子となる。
 名をガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌスと改める
・前27年、オクタヴィアヌスは国政に関するすべての権限を元老院に返還し、そのほとんどを元老院の意志によって再び受け取るという形をとった。
・そして、アウグストゥス(「尊厳なるもの」)という尊称を授与された
・アウグストゥスはみずから皇帝とも大王とも名のっていない。
・彼は、独裁者と疑われたカエサルの轍を踏まないように、絶対的権力者と見られることをさけ、プリンケプス(市民の第一人者)と呼ばれることを好んだ
・彼は共和政体そのものは変更しないで、元老院を尊重することによって、巧妙に、実質的に「皇帝」とよべるような権力を手に入れた
・アウグストゥスの尊称は後継者に受け継がれることになり、しだいに「アウグストゥス」はローマ皇帝そのものを表わす称号となっていった
・前27年、プロコンスル(属州総督)としてほぼ半数の属州の命令権が委ねられ、事実上、ローマ全軍の最高司令官となった
・前23年、コンスル(執政官)の職を辞任し、かわりに「終身護民官権限」を得た。
 これによって、元老院の招集、民会への法案提起の権利、法令に対する拒否権までを獲得することになった。
・さらに、上級プロコンスル命令権を獲得し、ほかのプロコンスルすべての上に君臨することになる
・前19年、元首の命令権がコンスルと同等であり、帝国全土におよぶものとされた

〈アウグストゥス帝時代〉
・前27年、アウグストゥス帝の幼なじみで側近のアグリッパはパンテオンを建てた
 これは80年に焼失し、ハドリアヌス帝によって再建された
・アグリッパはローマの給水設備の修繕と、新しい2本の水道「アクア・ユリア」と「アクア・ウィルゴ」の建設も担当した
・アウグストゥス帝自身は、小麦を供給する責任を引き受け、ローマの区割りを変えて14の行政区を作った
・アウグストゥス帝は質素な屋敷に住み続け、宮殿を建てなかった
・競技会の主催や建物の新築などの福利政策によって民衆の心をつかんだ
・アウグストゥス帝は親衛隊(1隊が500人あるいは1000人からなる9隊の精鋭軍)を創設した
・アウグストゥス帝は娘ユリアと孫娘ユリアの不品行に頭を痛め、島流しにした

〈ティベリウス帝〉在位 14~37年
・14年、アウグストゥス帝死後、ティベリウス(55歳)が即位
・ティベリウスの弟ドルススの息子ゲルマニクスはティベリウス帝の養子となり、ティベリウス帝の後継者と見なされていたが、
19年属州シリアのアンティオキアで死亡した。
・ゲルマニクスの死後、ティベリウス帝の実子ドルススが次期皇帝と見なされるようになったが、23年亡くなる。
・27年、ティベリウス帝はカプリ島へ隠遁してしまい、ふたたびローマに帰ることはなかった
・ティベリウス帝への連絡は親衛隊長セイヤヌスが独り占めした
・セイヤヌスは権勢をほしいままにする。
・実子ドルススは、妻リウィアとセイヤヌスが組んで毒殺したことが明らかとなった
・セイヤヌスとその一味は逮捕され、拷問され処刑された
・アウグストゥス帝が実施して庶民に憎まれた1%の消費税は、17年には半分に減らされたが、31年には再びもとにもどされた
・ティベリウス帝が最終的に後継者に指名したのは、ゲルマニクスの息子ガイウスであった
・ガイウスは幼い時から兵隊靴(カリグラ)をはかされていたので、カリグラという愛称で呼ばれていた

〈カリグラ帝〉 在位 37~41年
・カリグラ帝は軍営で生まれ、軍団の兵士たちを遊び相手にして育った。
 ふだん、「カリグラ」という小さな軍靴をはいていたので、小さな兵士のような彼に、兵士たちはカリグラというあだ名をつけたという
・37年、24歳で即位したカリグラは、当初は勢いにあふれていた
・しかし、半年もたたないうちに重病をわずらう。
 神経衰弱であったとも、肉体的な疾患だったとも言われている
・回復後、精神疾患におちいったともいわれ、暗殺や陰謀の猜疑心にとりつかれる
・カリグラ帝は派手な散財でティベリウス帝が残した約30億セステルティウスの莫大な財産をまたたくまに使い果たし、市民から財産の没収や強要をする
・金を集めるため、宮殿の一画に売春宿を開いたという
・剣闘士を競売にかけ、元老院議員に法外な値で買わせたという
・40年ごろには、カリグラ帝は帝国のほぼすべての土地で支持を失っていた
・皇帝暗殺計画が進行し、暗殺決行日は41年1月24日と決められた
・その日は「パラティヌス祭」の最終日で、カリグラ帝は宮殿前に設けられた劇場で芝居を見物することになっていた。
 皇帝は途中で入浴と昼食のために一度退席し、午後になってから再び戻ってくる習慣があった。
 そこで襲撃は、皇帝が細い通路を通って会場を出るときを狙って行われることになった。
 カリグラ帝は30回以上もメッタ刺しにされて殺されたという
・皇帝暗殺計画は、カリグラ帝の妻カエソニアと娘ドルシラの殺害で完了した
・カリグラ帝の名は公文書から消され、彫像は引き倒され、破壊されたが、この皇帝の記憶は狂気の支配者として民衆の心に深くきざまれた