(5)朝鮮の歴史 古代朝鮮 2 高句麗
★楽浪郡(ナンナングン)の設置
・武帝が設置した四つの郡は、衛氏朝鮮の故地を中心にした楽浪郡(ナンナングン)、
衛氏朝鮮国に服属していた臨屯国、真番国の故地を中心にした臨屯郡(イムドングン)、
真番郡(チンボングン)、と玄菟郡(ヒョンドグン)である
・ただしこれらは、それぞれが境を接するかたちで設置されたのではなく、朝鮮半島北半の全域が、漢の直轄領となったわけではない
・前82年、真番郡と臨屯郡が廃止された
・前75年、玄菟郡の本拠地を西北方に移動させた
・結局、朝鮮半島には楽浪郡だけが残ることになった
・その後、中国の楽浪郡による朝鮮半島に対する支配は、前漢の衰退とともに衰える
★帯方郡(テバングン)の設置
・後漢末、遼東地方に勢力を持った公孫度が、玄菟のほか、楽浪郡をも支配するようになった
・公孫度のあとをついだ公孫康が、204年ごろに帯方郡(テバングン)を設置した
・あらたな領土獲得ではなく、楽浪郡を二つにわけて、その南方に帯方郡を設置したのである
・228年、公孫淵が即位する頃は、魏・呉・蜀の三王朝並立時代となる
・238年、魏によって、公孫氏は滅ぼされ、楽浪郡、帯方郡は魏の領土となるが東方への窓口として機能していく
・邪馬台国の女王、卑弥呼の使者も、帯方郡を経由して中国入りすることになる
・313年、楽浪郡、帯方郡は高句麗によって滅ぼされた
★高句麗の始祖伝説
・高句麗(コグリョ)の始祖を朱蒙(チュモン)という
◎朱蒙
・朱蒙とは東扶余あたりの方言で、「弓の上手な者」という意味
・「三国遺事」「高句麗」の条に記された高句麗建国神話は次のような内容である
・河の神河伯の娘・柳花(ユファ)は、天帝の子・解慕漱(ヘモス)と出会って結ばれるが、父母の許しなく結婚したため、東扶余へ流される。東扶余王の金蛙(クマ)の所へたどり着いた娘は、身ごもって大きな1個の卵を産んだ。…やがて1人の子供が卵の殻をやぶって出てきた
・顔立ち、体格は優れ、知恵もあり、わずか7歳にして1人で弓を造り、矢を射れば百発百中、外すことがなかった。その国の風俗で、よく弓を射る者を朱蒙といったので、それを名前とした
・金蛙の息子たちは弓や馬術の上手い朱蒙に嫉妬して殺そうとするが、朱蒙は母の助言でいち早く逃げ出し、やがて卒本州(チョルボンジュ)に至って、そこで高句麗を建てた(紀元前37年という)
・後代にいたると、扶余の東明伝説と結びつき、「始祖は東明聖王であり、諱(いみな)は朱蒙である」とされ、ついには「朱蒙は檀君の子である」とさえいわれた
◎国内城(クンネソン)
・3世紀初め頃、高句麗は根拠地を卒本州から集安市(中国吉林省)の国内城に移した
・集安市は、第20代の王、長寿王が都を平壌に遷都するまで、高句麗の都だった
・前220年、後漢が滅亡し、中国は三国時代・五胡十六国時代を迎える
・313年、高句麗は楽浪郡と帯方郡を滅ぼして、朝鮮半島から中国勢力を退けることに成功する
・故国原王(第16代)は、369年に百済を攻めたが敗れ、さらに371年、平壌まで進撃されて、故国原王は戦死した
・第17代の王、小獣林王(ソスリムワン)は国家体制の立て直しと中国との関係修復に力を注ぐ
・前秦から僧・順道が仏像・経文を伝え、375年には、肖門寺、伊弗蘭寺(イブルランサ)が建立されるなど、仏教を受け入れた
・国家の教育機関として太学が設けられた
◎広開土王(クワンゲトワン)
・391年、広開土王(第19代)が即位した
・広開土王の幼名は「談徳」、即位してから「永楽太王」の名があり、「広開土王」や「好太王」は死後のものである
・広開土王とは「広く領土を開いた王」という意味で、高句麗の領土を広く拡大した
◎長寿王(チャンスワン)
・広開土王の息子、長寿王は都を平壌に遷都(427年)し、高句麗最大の領土を築き上げた
・長寿王は中国の北朝(北魏)と南朝(宋)の両王朝に使者を送り、中国との安定した関係を保つことに腐心した
・6世紀中頃には、新羅が台頭する
・589年、中国が随によって統一された
◎曇徴
・随との戦争が目前に迫った高句麗が、日本に軍事援助を求め、その代償として、610年、曇徴・法定の2名の僧侶を日本に派遣した
・曇徴は、儒教の五経(詩経・書経・易経・春秋・礼記)を伝授し、彩色(絵の具)や紙・墨の製法、碾磑(てんがい)(水力で動かす臼)の製法を伝えた
・曇徴のもたらした彩色は、のちに仏像などの塗装に使用される
・紙・墨の製法は、写経などの需要を満たすこととなる
・法隆寺金堂壁画は曇徴が描いたものと伝えられている
★聖徳太子の経典研究会
・615年、「法華経義疏」が公表された
・聖徳太子の主宰により、高句麗僧の恵慈をはじめ渡来系僧侶たちと、定期的に仏教経典の研究会が開かれていたが、その成果の一部として法華経の注釈書「法華経義疏」が約1年余の短期間でまとめられ、公表された
・研究会は、重要メンバーの恵慈が帰国することになり抜けたことにより、事実上解散となる
★三経義疏
・共同研究の成果は聖徳太子個人の仕事として「三経義疏」といわれるようになる
★楽浪郡(ナンナングン)の設置
・武帝が設置した四つの郡は、衛氏朝鮮の故地を中心にした楽浪郡(ナンナングン)、
衛氏朝鮮国に服属していた臨屯国、真番国の故地を中心にした臨屯郡(イムドングン)、
真番郡(チンボングン)、と玄菟郡(ヒョンドグン)である
・ただしこれらは、それぞれが境を接するかたちで設置されたのではなく、朝鮮半島北半の全域が、漢の直轄領となったわけではない
・前82年、真番郡と臨屯郡が廃止された
・前75年、玄菟郡の本拠地を西北方に移動させた
・結局、朝鮮半島には楽浪郡だけが残ることになった
・その後、中国の楽浪郡による朝鮮半島に対する支配は、前漢の衰退とともに衰える
★帯方郡(テバングン)の設置
・後漢末、遼東地方に勢力を持った公孫度が、玄菟のほか、楽浪郡をも支配するようになった
・公孫度のあとをついだ公孫康が、204年ごろに帯方郡(テバングン)を設置した
・あらたな領土獲得ではなく、楽浪郡を二つにわけて、その南方に帯方郡を設置したのである
・228年、公孫淵が即位する頃は、魏・呉・蜀の三王朝並立時代となる
・238年、魏によって、公孫氏は滅ぼされ、楽浪郡、帯方郡は魏の領土となるが東方への窓口として機能していく
・邪馬台国の女王、卑弥呼の使者も、帯方郡を経由して中国入りすることになる
・313年、楽浪郡、帯方郡は高句麗によって滅ぼされた
★高句麗の始祖伝説
・高句麗(コグリョ)の始祖を朱蒙(チュモン)という
◎朱蒙
・朱蒙とは東扶余あたりの方言で、「弓の上手な者」という意味
・「三国遺事」「高句麗」の条に記された高句麗建国神話は次のような内容である
・河の神河伯の娘・柳花(ユファ)は、天帝の子・解慕漱(ヘモス)と出会って結ばれるが、父母の許しなく結婚したため、東扶余へ流される。東扶余王の金蛙(クマ)の所へたどり着いた娘は、身ごもって大きな1個の卵を産んだ。…やがて1人の子供が卵の殻をやぶって出てきた
・顔立ち、体格は優れ、知恵もあり、わずか7歳にして1人で弓を造り、矢を射れば百発百中、外すことがなかった。その国の風俗で、よく弓を射る者を朱蒙といったので、それを名前とした
・金蛙の息子たちは弓や馬術の上手い朱蒙に嫉妬して殺そうとするが、朱蒙は母の助言でいち早く逃げ出し、やがて卒本州(チョルボンジュ)に至って、そこで高句麗を建てた(紀元前37年という)
・後代にいたると、扶余の東明伝説と結びつき、「始祖は東明聖王であり、諱(いみな)は朱蒙である」とされ、ついには「朱蒙は檀君の子である」とさえいわれた
◎国内城(クンネソン)
・3世紀初め頃、高句麗は根拠地を卒本州から集安市(中国吉林省)の国内城に移した
・集安市は、第20代の王、長寿王が都を平壌に遷都するまで、高句麗の都だった
・前220年、後漢が滅亡し、中国は三国時代・五胡十六国時代を迎える
・313年、高句麗は楽浪郡と帯方郡を滅ぼして、朝鮮半島から中国勢力を退けることに成功する
・故国原王(第16代)は、369年に百済を攻めたが敗れ、さらに371年、平壌まで進撃されて、故国原王は戦死した
・第17代の王、小獣林王(ソスリムワン)は国家体制の立て直しと中国との関係修復に力を注ぐ
・前秦から僧・順道が仏像・経文を伝え、375年には、肖門寺、伊弗蘭寺(イブルランサ)が建立されるなど、仏教を受け入れた
・国家の教育機関として太学が設けられた
◎広開土王(クワンゲトワン)
・391年、広開土王(第19代)が即位した
・広開土王の幼名は「談徳」、即位してから「永楽太王」の名があり、「広開土王」や「好太王」は死後のものである
・広開土王とは「広く領土を開いた王」という意味で、高句麗の領土を広く拡大した
◎長寿王(チャンスワン)
・広開土王の息子、長寿王は都を平壌に遷都(427年)し、高句麗最大の領土を築き上げた
・長寿王は中国の北朝(北魏)と南朝(宋)の両王朝に使者を送り、中国との安定した関係を保つことに腐心した
・6世紀中頃には、新羅が台頭する
・589年、中国が随によって統一された
◎曇徴
・随との戦争が目前に迫った高句麗が、日本に軍事援助を求め、その代償として、610年、曇徴・法定の2名の僧侶を日本に派遣した
・曇徴は、儒教の五経(詩経・書経・易経・春秋・礼記)を伝授し、彩色(絵の具)や紙・墨の製法、碾磑(てんがい)(水力で動かす臼)の製法を伝えた
・曇徴のもたらした彩色は、のちに仏像などの塗装に使用される
・紙・墨の製法は、写経などの需要を満たすこととなる
・法隆寺金堂壁画は曇徴が描いたものと伝えられている
★聖徳太子の経典研究会
・615年、「法華経義疏」が公表された
・聖徳太子の主宰により、高句麗僧の恵慈をはじめ渡来系僧侶たちと、定期的に仏教経典の研究会が開かれていたが、その成果の一部として法華経の注釈書「法華経義疏」が約1年余の短期間でまとめられ、公表された
・研究会は、重要メンバーの恵慈が帰国することになり抜けたことにより、事実上解散となる
★三経義疏
・共同研究の成果は聖徳太子個人の仕事として「三経義疏」といわれるようになる