以前、函館の八幡坂を紹介しましたが
小樽の坂の紹介をしたいと思います
船見坂
勾配15パーセント
名前の通り、船が見えます
国道5号線、小樽駅前の西側の一つ目の信号を
山側に登った坂が船見坂です
三角市場と中央市場が、はす向かいの交差点です
勾配15パーセントって
水平に100行って
垂直に15下る(登る)
勾配のことです
現地で実感してみてください
以下は
小樽市のホームページからの転記です
港を見つめる船見坂 前編
こう配15%を超える船見坂は、小樽でも屈指の急な坂です。市民は腰をかがめながら坂を登ります。
明治37年、函館本線が全線開通しました。また、この年、稲穂町で大火が発生しました。
明治37年、函館本線が全線開通しました。また、この年、稲穂町で大火が発生しました。
この大火により2000戸以上の家屋が焼失し、火は坂のすぐ近くまで迫りました。
この火事がきっかけとなって駅前中央通りと龍宮通りとの中間に防火帯として、
もう一本の道路を開削することになり、その結果誕生したのが船見坂でした。
この坂ができたことにより、三角山斜面一帯の開発が進み、高級住宅地富岡が出現しました。
この坂ができたことにより、三角山斜面一帯の開発が進み、高級住宅地富岡が出現しました。
財をなした小樽の人たちは、あこがれのこの高台に居を構え、
青い海と増毛連山を眺めながら生活したといわれています。
坂の中ほどには函館本線をまたぐ船見橋があり、
さらに坂を登りつめると右手に15%とこう配を示した表示板が立っています。
振り返ればその名のとおり小樽港に停泊する船を眼下に見ることができます。
ここからの眺めは、小樽を舞台としたテレビや映画などに必ずといって良いほど取り上げられています。
坂の登り口には、国道五号との交差点を中心として対角線上に三角市場と中央市場があります。
坂の登り口には、国道五号との交差点を中心として対角線上に三角市場と中央市場があります。
この二つの市場は小樽駅に近接しているという地の利を生かし、
戦後の商品流通の拠点として活躍しました。
当時、ブリキの容器に鮮魚類をあふれるほど詰め込んだ「ガンガン部隊」も、
この市場で商品を仕入れ各地へ出発しました。
当時の流通の担い手「ガンガン部隊」。今はもう、遠い幻の世界のこととなってしまったのでしょうか。
港を見つめる船見坂 後編
船見坂を登り、山頂の旭展望台に続く道からは小樽の街を一望することができます。
旭山がまだ三角山と呼ばれていたころ、子どもたちにとってここは最高の遊び場でした。
明治時代中期、ニシン漁は最盛期を迎えます。ニシンは単に食料としてだけでなく、
明治時代中期、ニシン漁は最盛期を迎えます。ニシンは単に食料としてだけでなく、
ニシン粕(かす)と呼ばれる魚肥としての価値もありました。
このニシン粕を生産するための燃料として、市内の雑木が大量に伐採されましたが、
ここ三角山の海側斜面も同様でした。
この伐採により障害物がなくなり、民家の絶えたあたりには、
石垣を積んで作られた平坦な区画が階段状にいくつもあって、
まさに子どもたちにとって自然の運動場ができあがりました。
夏になると、棒きれ一本で兵隊ごっこ、トンボやバッタなどの虫捕り、
夏になると、棒きれ一本で兵隊ごっこ、トンボやバッタなどの虫捕り、
時には青大将と遭遇して大騒ぎしていました。
そして冬には、身近なゲレンデに早変わりします。
「正ちゃん帽」に「ぼっこ手袋」、長靴にスキーを着けて、
そのまま三角山から船見坂を滑り降りてきます。
ソリはさらにスリル満点。
意味も分らないのに「去れよ!去れよ!」「去らねば山からモコ(蒙古=もうこ)くるぞ!」と叫びながら、
ものすごいスピードで一直線に降りる気分は、実にそう快でした。
当時の交通手段はリヤカーと大八車、せいぜい荷馬車が走っている程度でしたから、
当時の交通手段はリヤカーと大八車、せいぜい荷馬車が走っている程度でしたから、
大人たちは山坂で縦横無尽に遊びまわる子どもたちを黙って見守ってくれたものです。
現在は、美しい緑が育ち、住宅も建ち並んで、子どもたちが走り回る姿はありませんが、
現在は、美しい緑が育ち、住宅も建ち並んで、子どもたちが走り回る姿はありませんが、
港を見おろし、そっと耳を澄ませば、今にも子どもたちの笑い声が聞こえてくるようです。
協力:小樽史談会