2023年4月17日(月)
今日、お仕事はお休み
朝、妻の眼科通院の送迎で手稲まで行きましたが
外気温が3℃と低く寒~い
一瞬みぞれが雪に変わりましたが積雪になるほどではありませんでした
峠は圧雪アイスバーン
タイヤ交換した方は峠越えは禁物です
先日小樽市内にルーツ調査に行った時
その調査地に隣接する
臨港線沿いの「田中酒造亀甲蔵」を見学しました
(小樽市信香町2-2)
外部から見る限り、石の組積造(そせきぞう)に見えます
基礎はレンガの組積造
内部の見学も出来ます
小樽の地酒「寶川」(たからがわ)の田中酒造
店舗の中央には立派な大黒柱
その大黒柱の裏側には神棚と大きなしめ縄
外壁の内部側
木造の軸組みの外部に小樽軟石を積み
カスガイで留めているのが確認できます
スマホの計測機能でその小樽軟石の外壁厚を計測
約19センチ
小屋組みも、もちろん木造
立派な梁材に圧倒されます
屋根は現在トタン葺きですが、当時は瓦葺だったと想像されます
この構造は「木骨石造」と言われ
小樽の石造倉庫の代表的なものです
小樽の歴史の概要は以下の通り
①縄文時代~ 縄文人が住み手宮の古代文字や環状列石がその痕跡として保存されています
②江戸時代以前は先住民のアイヌが住み着く
③松前藩時代にニシンを追って和人が大勢北上し住み着きニシン漁で繁栄
④明治時代 幌内炭鉱と手宮間に鉄道開通、石炭の積出港として繁栄
⑤日露戦争に勝利、樺太が日本領となり樺太航路で北のウォール街と言われるほど繁栄
⑥やがてニシンは不漁
⑦さらにエネルギーが石炭から石油に替わり、炭鉱の閉山
⑧そして太平洋戦争の敗戦で樺太がロシア領となり樺太航路の廃止
⑨とどめは苫小牧港の開港により小樽港は衰退
小樽市の人口のピークは、昭和35年198千人
現在の人口は、令和5年3月末現在107千人
ピーク時の約半分になってしまいました
日本銀行小樽支店をはじめ、大手都市銀行のほとんどが出店した北のウォール街
今は日本銀行も都市銀行もすべて撤退
旧店舗の歴史的建造物だけが、その面影を残し観光資源として活用されています
小樽が繁栄した時代、何度か大火の被害がありました
当時の小樽商人と小樽の大工が考え出した耐火建築工法が「木骨石造」です
小樽市石山地区では「小樽軟石」が採掘出来ました
木造の火災延焼の弱点を補うために
外装材に加工性と耐火性に優れた小樽軟石を積みカスガイで留め
屋根は瓦で葺き耐火性を向上させ火災から建物を守ったのです
その発想と行動力には脱帽
現在、小樽運河と共に小樽の石造倉庫は
小樽の観光資源として無くてはならない存在です
こんな事をブログに書いてると
昔、学生時代にこのテーマでレポートを書いた記憶が蘇りました
探すと、そのレポートがなんと出てきました~
「小樽の石造倉庫」
昭和55年(1980年)1月
神奈川県相模原市に住み
神奈川県平塚市の「湘南キャンパス」に通学していた大学3年生の建築史のレポート
少し長くなりますがそのレポートを紹介させていただきます
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「小樽の石造倉庫」
昭和55年1月25日
私が何故、小樽の石造倉庫などをテーマに選んだかと申しますと
本来なら奈良時代や鎌倉時代などの建物でもテーマにすればよいのでしょうが
なにしろ田舎が北海道で、身近にそのような有名な歴史的建造物がなく
それなら身近で出来るだけ古い建物はと探したところ、この倉庫が目に付いたのであります
もうひとつには、今小樽の運河埋め立て問題でこの倉庫群も大変な危機に迫っていて
私自身もこの運河や倉庫に愛着を感じていて、現存するうちによく観ておきたいと思いテーマにしたものです
先生の期待するところのテーマとはほど遠いかと存じますが、何卒ご勘弁の程を・・・・・
小樽の石造倉庫はそのほとんどが木骨石造という一種独特の構造によっている
これは木の軸組に厚さ15センチ前後の切り石をカスガイで留めたもので
切り石の厚さからすれば木骨石造というより木造・石造の中間的構造に近いと言える
その性格は構造に限らず、木造建築に石造建築の持つ耐火性あるいは堅牢なイメージを
逆の見方をすれば石造建築に木造建築の伝統的技術と相対的な工期の短さを兼ね備えさせたものと考えられる
明治37年(1904年)の2,500余戸を焼失するという小樽大火で苦い思いをした当時の小樽商人の求めるところに
この木骨石造の持つ二重の特徴はよく合致していたと言えるのではないだろうか
石造倉庫(木骨石造)は、形態も一般に単純な切妻屋根で
その機能目的からしても商店建築のような多彩な意匠の変容をみることはない
岡田正三の倉庫あるいは小樽倉庫などは大小のアーチ型開口部を基調に洋風意匠が特徴的であった
これに対して、有幌の倉庫群(道路建設の為解体され今はもうない)はアーチ型開口部などあまり見られず
全体に質実な印象を与えている
このような意匠面での特質は何を語っているのだろうか
考えられることは、ひとつには明治期の建築への洋風化要素の浸透は
単純に時間が進めば、深まっていくものと考えられるものではなく
時には逆流「和風回帰」もしながら波及していくものであるということ
もうひとつには、洋風化を受け入れる土壌風土の違いと言った地域性の問題も
そこには見ることが出来る様に思われる
往時、小樽が港湾商業都市として栄華を競った函館の場合
洋風摂取は町屋建築にまで浸透し時代が過ぎるにつれ装飾細部の簡略化は進むものの目立って廃れることはなかった
それに比して、小樽の場合、洋風の小屋組と言った技術面は継承されるものの
伝統への融合をひとつの到達的としている
そこにある意味で保守的な商人の街であることの特質が見るのである
最後に小樽市民の一人として、実際小樽市内の交通渋滞はひどいものである
古い街だからこそこうなるのだと思うが
現代において小樽の運河や倉庫のようにどこか古めかしく落ち着いたものが保存され活用されても良いと思う
渋滞緩和の為の道路も欲しい
運河や倉庫も残しておきたい気持ちで
建築を学ぶ者としてとても複雑な心境です
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二十歳の自分の文章に少し照れますが
当時から小樽運河と小樽の石造倉庫に
深い興味を持っていたことが窺えます
原稿用紙に付着したバインダーの錆が
43年と言う時の流れを感じさせます
小樽市民にこだわり今も小樽に住んでいますが
人口減が進む小樽市の将来が心配でなりません
今週末は小樽市議会選挙
誰に小樽市の将来を託せばよいのでしょうか
人生はあまりにも短い事に
改めて気付かされました!