自分ではないものになろうと努力してきた、必要とされる事を必要としてきた。価値の低い自分だから価値の低い扱いを自ら受け入れていた。私にとっては家族に「お前が悪い」と言われればそれが真実だった、婚家で「この家が上手くいかないのは嫁であるあなたのせい」と言われ反発しつつも上手くできない自分に罪悪感を抱いてきた。上手くできたとしても「自分は偽善者だ」という意識が常にあった。
ずっとモヤモヤしてきた、自分でありながら自分でないような、人と接する時には常に小さな怒りがあった。相手の望む私になる、しかし本心は「やりたくない」でもやらなくてはならない。これは多分、封印してきた私の真実の声。「なにか違う」という違和感の核は私の自尊心であり心の灯だったのだと思う。
他人の言動に「必ず」従わなくちゃいけないという事は無いのだ、相手の意に添わなくても自分には価値があるのだから。責任転嫁された相手の課題を当然のように受け入れていた、無実の罪悪感を受け入れてきたことに気づいてしまった。
何故そんな風に思い込んでいたのか、それは多分、自分で考えることを放棄してきたから、放棄しなければ肉体的にも精神的にも暴力を受けてきたからだと感じている。
尊重されてきたであろう大多数の知り合いや夫は、何故そんな怒りを抱えているのかと驚く。「嫌だったらしなければいいじゃない」という事らしい、それができたらこんなに何十年も苦しみはしないのだが。根本で虐待を受けた人間とそうでない人間との隔絶を感じる、なぜそんなに「自分であることへの自信ががある」のか理解できないでいる。私には庇護者への信頼と自分への信頼感が薄いのだ、常に不安でたまらない。
まだ堀下げが必要な部分、私の奥底から聞こえてくるささやかな声を頼りにまた進む。私自身が問題解決のカギを握る、なりたい自分になるために自分を信じる、心の灯を消したくないから。