私にとっての当たり前が、実は思い込みの激しい未熟な世界観だったとは思いもしなかった、それは盲点で、実は第三者には明らかなものだという事を最近知った。
「努力すれば正しくなれる、いつかできるようになる」妖怪人間ベムのようにいつか人間になりたいと、上手くいかない時に漠然と考えていた。未熟さを嘆く切っ掛けであり、また更に精進邁進するか、うらぶれた気持ちになるか、最後には立ち上がるしか道が思いつかなくて、またそんな体当たり路線である自分を嘆くのだ。
自分が育つ中の私の認知にある世界観や「私」という実感が「思い込み」だなんて自然に気が付くことなどできるのだろうか?各々が自分の世界観を信じてやり抜くものだが、存在する社会は一つで、それに近づくために皆頑張るし、そこから外れているからこそ虐められた糾弾されたりするんだろうと思っていた。
「みんな違う」という認知自体が皆ぞれぞれに「認知している世界観自体も違うのだ」というのなら、自分と違うからと正義感ぶって糾弾したりすること自体がおかしなことだ。私は知らなかったけれど皆もわかってないということだ。
「みんな違ってそれでいい」自体が、「千差万別の受け取り方をされている」だなどと気が付いている人などいるのだろうか?わかっていない人も多いんだろうなと思った。そしてそれでも生きていけるのだ。