心を込めて

心の庵「偶垂ら庵」
ありのままを吐き出して 私の物語を紡ぎ直す

いま私自分軸だった

2022-11-03 21:00:45 | 新しい心持へ

私は変わるために努力してきたのだ、自分のこれまでのためにそしてこれからのために。これまで努力し続けていたから、今の私があるのだという気付きが私を励ましている。今回の件を聞いても私は最初動揺しなかった、体の反応もなかった重苦しくて泣き出したくなるような動揺を感じなかった、むしろスーッと「バカじゃないの」と相手の愚かしさに思いが至った。「いま私自分軸だった」そんな自分の成長の気づきが嬉しかった。

嫌な人が悪いのだから自罰的になる必要は無いという事。

考え方を柔軟にして自分を再教育する事。

他者への依存をエスカレートさせないこと。

揺さぶられても自分軸を貫くこと。

真面目に受け取り過ぎないこと鵜呑みにしないこと。

暗黙知を意識して中道を目指すこと。

極端な考えにならないよう気持ちを整理する事。

愚痴や意見の発露はTPOを弁えること。

嬉しくなって調子に乗らないこと。

揺さぶりに動揺して自暴自棄にならないこと。

大多数の最大派閥に無関心な意識されない立ち位置を目指すこと。

自己肯定感と境界線を強化する事。

自分を信じること。

粗末な扱いを受け入れる必要は無いという事。

哀しいストーリーを抱えた意地悪で未熟な人間は多く存在するという事。

人間なんてこんなものビビりすぎる必要は無いという事。

心を整理し楽観視する事。

自己理解他者理解のもと用心深く生きること。

以前の私なら自分の悪口に気づいたら、自分の未熟さを嘆き、思考が停止して恐慌状態になり、自虐的になり抑うつ状態になって、自分を責め続けていただろう。しかし今は、嫌われたかもしれないそんな数人のほかに、肯定的な態度を取ってくれている人もいるように感じる、全員に嫌われているという事ではないのだと思う、これは客観視が育ち、思い込みが減ってきたからだと感じる。ビビり過ぎる必要は無い、仕事がしにくいかもしれないけど辞めるほどでもない、そう思っていきたい、新しいルートのために。

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悪口言われてると教えてくれなくていいよ

2022-11-03 18:45:40 | モヤモヤする事

 

「あなたが上司に告げ口した話を教えてくれたと〇さんが話していて、その場面を△さんが見たと言っていた。それに怒った□さんがあなたのグループの人にいきさつを陰口していたよ」

確かに〇さんにそれらしい話をした、しかし憶測が憶測を生み、真実とは似て非なる話が事実のように出回っていることを知った。「悪口を言われてる」と教えてくれた人はこれが二回目で、何故教えてくれるのかよくわからなくてモヤモヤしたが、もしかしたら彼女は彼女自身の問題とオーバーラップして混乱し、苦しくなって私に教えてくれたのかもしれない。私と同じような自己肯定感の悩みを抱えているACだから。

悪意ある態度への対応には学びを深めてきた。理性的に対処する事、相手にしないこと、彼らの問題、自分が悪いと鵜呑みにしない事、怯む必要は無いという事、信頼に値しない人だという事。自分を信じる上で間違っていないと思うのならば、対立は避けられないということ、人間は社会的な生き物、嫌われるのも対立があるのも自然なことだということ。「次からは私の悪口を聞いても教えてくれなくていいよ」そう伝えた。

しかし昨日今日と悩んで寝込んでしまった、悪意は無くても自分の悪口を聞かされるのはやはり傷つく、それが判るからたいていの人はそのことを本人にわざわざ伝えたりしない。どうしても伝えなければならないのなら「〇さんがあなたの話を吹聴しているよ、気を付けてね心配している」という位でいいのだ。

自分に向けた悪意ある噂話を、理性では相手にする必要がないことを理解していても、体は正直だ、多分私は傷つき怒っているんだと思う。悔しくて裏切られた気持ちでかなしくて堪らないのだろうと思う、だからモヤモヤしているのだろうと思う。

私は間違ったことをしたのではない、私の信念に関わる事だから上司にコロナ対策の強化について進言した、再三注意されているのに守られてなかったから、そしてグループ内で感染者が出たばかりだったから。信頼に値しない人間に話してしまった私の迂闊さ、境界線の甘さが招いたこと、その話が曲解されて悪用されたのだ。自分以外を正しい人間だと思い込んでしまっている認知、遜ることが正しいと思い込んでいる認知があったから、これからの課題として人を見極める目が必要なのだと思う。

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自分ではないものになろうとしてきた

2022-11-01 10:36:01 | 新しい心持へ

 

自分ではないものになろうと努力してきた、必要とされる事を必要としてきた。価値の低い自分だから価値の低い扱いを自ら受け入れていた。私にとっては家族に「お前が悪い」と言われればそれが真実だった、婚家で「この家が上手くいかないのは嫁であるあなたのせい」と言われ反発しつつも上手くできない自分に罪悪感を抱いてきた。上手くできたとしても「自分は偽善者だ」という意識が常にあった。

ずっとモヤモヤしてきた、自分でありながら自分でないような、人と接する時には常に小さな怒りがあった。相手の望む私になる、しかし本心は「やりたくない」でもやらなくてはならない。これは多分、封印してきた私の真実の声。「なにか違う」という違和感の核は私の自尊心であり心の灯だったのだと思う。

他人の言動に「必ず」従わなくちゃいけないという事は無いのだ、相手の意に添わなくても自分には価値があるのだから。責任転嫁された相手の課題を当然のように受け入れていた、無実の罪悪感を受け入れてきたことに気づいてしまった。

何故そんな風に思い込んでいたのか、それは多分、自分で考えることを放棄してきたから、放棄しなければ肉体的にも精神的にも暴力を受けてきたからだと感じている。

尊重されてきたであろう大多数の知り合いや夫は、何故そんな怒りを抱えているのかと驚く。「嫌だったらしなければいいじゃない」という事らしい、それができたらこんなに何十年も苦しみはしないのだが。根本で虐待を受けた人間とそうでない人間との隔絶を感じる、なぜそんなに「自分であることへの自信ががある」のか理解できないでいる。私には庇護者への信頼と自分への信頼感が薄いのだ、常に不安でたまらない。

まだ堀下げが必要な部分、私の奥底から聞こえてくるささやかな声を頼りにまた進む。私自身が問題解決のカギを握る、なりたい自分になるために自分を信じる、心の灯を消したくないから。

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