仕事場のお昼休憩時間に、睡眠をとるのは是か非か。本やネットで情報を集める限り、一般的には睡眠推進派が大多数だ。ではどの位の睡眠の浅さが丁度良いのか。横になってしっかりと眠るのか、机にうつぶせになってすぐ臨戦態勢をとれる状態で浅く眠るのか。私の場合仕事上、というか席の都合上後者にならざるを得ない。さらにお客さんが入ってくる音がしたらすぐ対応できるように常に気は張っておく。丁度車のアクセルを踏まずにエンジンだけかけておくような状態だ。これではほとんど眠っていないと同義なのだが、不思議と眠気がとれる。
これは特に珍しいことではないようで、電車のシートで眠っていても目的の駅の名前がアナウンスされれば目が覚めるのと一緒だ。この睡眠に名称はついているのだろうか。意識自体ははっきりとあるのだからレム睡眠とは違うだろう。
何故こんな話題を書いたかというとこのブログを書く前に同じような眠り方をしていたからだ。ブログのネタが出てこない時、机の前に突っ伏して頭をOFFにする。この時に「何書こうかな?」と頭の隅で考えるのがポイントだ。煩雑な意識がリラックスする事でまとまるのだろうと私は解釈している。心が落ち着くのとともに、書くためのテンションが上がる。そこで飲みなれないお酒が入れればさらに加速する。酒は少量で構わない。アルコールそのものが脳に作用するというより、酒を飲みながら文を書いているというシチュエーションにテンションが上がるのだ。
そう考えると、集中力をどうやって身につけるかという疑問は論点がずれているようだ。「集中する」とは同じ事をずっと続ける事ができるとほぼ同意であり、それが出来るにようになるにはやる気を維持するための環境作りに力を入れればいい。これを学生時代の勉強に応用できるだろうか。やっている人はもうとっくにやっているだろう。個の意志なんてたかがしれたものだ。環境は第二の才能であり、後天的なものだ。あるかどうかわからない先天的な才能にすがるより余程確実で、コントロールもできる。問題はその環境をどうやって揃えるか。各人の個性にあった環境作りをするべきか、最もよい環境を画一に与えるか。先に私の考えを言うと前者であるべきだ。後者はとどのつまりは同じ環境を与えれば同じ人間が育つのか、という事で勿論答えはNOだ。要は対象を観察し、それにあった対応をする事が肝要である。自然物に対して「ああすればこうなる」の思考は禁物である。それは非常に傲慢だ。どうあって欲しいか、その最低限の道筋だけを心にとどめておきながら、思慮深く、根気よく付き合っていくしかない。そうしたアプローチにおいて対象が自分の目的通りの形にならなかったらどうするか。それはそれで仕方がない。やれるだけの事をしたのだから。言い訳の余地を残しておかなければ諦めがつく。それで駄目ならそういうものだったと割り切るしかない。ただ人事を尽くさなければ天命を待つ資格はない。だからやりきるだけなのだ。
酒の力を借りた思考は浅い所で空回りするのが落ちだ。しかし書けばとりあえず何かしらかする位の事があるかもしれないので残しておこう。
ところでお昼休憩中に眠くなるのは昼食に米を中心とした炭水化物を食べるからだと聞く。これを抜いたところ昼の眠気が無くなり、昼時間も仕事ができて効率が良くなったらしい。最近テレビでは米食の重要性を考える企画が増えている。これはどこの差し金だろうか非常に気になる。どさくさに紛れて米食がブームになればそれはそれで面白いのだけど。そもそも米を食わずに献立を作ろうとすると食費がかなりかさむ。それだけでも十分米食を続ける意味はある。インスタント業界がもっと米に合う食品を作ればもっと消費量は増えると思うのだが。今の「現代的」な食事はどの様なものなのかデータが欲しい。何故米をもっと食卓に出さないのか、主婦の意見も欲しいところだ。もっとご年配の方の意見で多いのは「子供が米を食べないから」だ。これはその通りだろう。何故子供は米を食べないかを考えると、他にもっと「美味しい」もの、もっと正確に言うともっと「甘い」ものが氾濫しているからだと考える。もともと人間が米などという栽培方法もよくわからん面倒なものを作り始めたのは米の「甘さ」に惹かれたからだ、との考えがある。私はこの考えに深く共感する。「甘さ」は誘惑であり、麻薬だ。もっと強力な麻薬があればそちらに惹かれる。だから子供には甘いものを摂らせなければいい。単純な話だ。ここらへんを話すと食文化の変遷について語りたくなるし、さらに最近増えているアレルギー、アトピーもかかわってくるので止めておこう。
人は誘惑に対して節度を持たなければならないというのが私の考えだ。我慢は自己防衛本能だ。変化を嫌うのが本能であるが、変化しなければ生きていけないのも事実だ。その変化の先が堕落か成長か。この判断が難しい。今の所、私の評価基準は美しいか否かである。かわいいが正義であるならば、美しいは真理なのだ。
これは特に珍しいことではないようで、電車のシートで眠っていても目的の駅の名前がアナウンスされれば目が覚めるのと一緒だ。この睡眠に名称はついているのだろうか。意識自体ははっきりとあるのだからレム睡眠とは違うだろう。
何故こんな話題を書いたかというとこのブログを書く前に同じような眠り方をしていたからだ。ブログのネタが出てこない時、机の前に突っ伏して頭をOFFにする。この時に「何書こうかな?」と頭の隅で考えるのがポイントだ。煩雑な意識がリラックスする事でまとまるのだろうと私は解釈している。心が落ち着くのとともに、書くためのテンションが上がる。そこで飲みなれないお酒が入れればさらに加速する。酒は少量で構わない。アルコールそのものが脳に作用するというより、酒を飲みながら文を書いているというシチュエーションにテンションが上がるのだ。
そう考えると、集中力をどうやって身につけるかという疑問は論点がずれているようだ。「集中する」とは同じ事をずっと続ける事ができるとほぼ同意であり、それが出来るにようになるにはやる気を維持するための環境作りに力を入れればいい。これを学生時代の勉強に応用できるだろうか。やっている人はもうとっくにやっているだろう。個の意志なんてたかがしれたものだ。環境は第二の才能であり、後天的なものだ。あるかどうかわからない先天的な才能にすがるより余程確実で、コントロールもできる。問題はその環境をどうやって揃えるか。各人の個性にあった環境作りをするべきか、最もよい環境を画一に与えるか。先に私の考えを言うと前者であるべきだ。後者はとどのつまりは同じ環境を与えれば同じ人間が育つのか、という事で勿論答えはNOだ。要は対象を観察し、それにあった対応をする事が肝要である。自然物に対して「ああすればこうなる」の思考は禁物である。それは非常に傲慢だ。どうあって欲しいか、その最低限の道筋だけを心にとどめておきながら、思慮深く、根気よく付き合っていくしかない。そうしたアプローチにおいて対象が自分の目的通りの形にならなかったらどうするか。それはそれで仕方がない。やれるだけの事をしたのだから。言い訳の余地を残しておかなければ諦めがつく。それで駄目ならそういうものだったと割り切るしかない。ただ人事を尽くさなければ天命を待つ資格はない。だからやりきるだけなのだ。
酒の力を借りた思考は浅い所で空回りするのが落ちだ。しかし書けばとりあえず何かしらかする位の事があるかもしれないので残しておこう。
ところでお昼休憩中に眠くなるのは昼食に米を中心とした炭水化物を食べるからだと聞く。これを抜いたところ昼の眠気が無くなり、昼時間も仕事ができて効率が良くなったらしい。最近テレビでは米食の重要性を考える企画が増えている。これはどこの差し金だろうか非常に気になる。どさくさに紛れて米食がブームになればそれはそれで面白いのだけど。そもそも米を食わずに献立を作ろうとすると食費がかなりかさむ。それだけでも十分米食を続ける意味はある。インスタント業界がもっと米に合う食品を作ればもっと消費量は増えると思うのだが。今の「現代的」な食事はどの様なものなのかデータが欲しい。何故米をもっと食卓に出さないのか、主婦の意見も欲しいところだ。もっとご年配の方の意見で多いのは「子供が米を食べないから」だ。これはその通りだろう。何故子供は米を食べないかを考えると、他にもっと「美味しい」もの、もっと正確に言うともっと「甘い」ものが氾濫しているからだと考える。もともと人間が米などという栽培方法もよくわからん面倒なものを作り始めたのは米の「甘さ」に惹かれたからだ、との考えがある。私はこの考えに深く共感する。「甘さ」は誘惑であり、麻薬だ。もっと強力な麻薬があればそちらに惹かれる。だから子供には甘いものを摂らせなければいい。単純な話だ。ここらへんを話すと食文化の変遷について語りたくなるし、さらに最近増えているアレルギー、アトピーもかかわってくるので止めておこう。
人は誘惑に対して節度を持たなければならないというのが私の考えだ。我慢は自己防衛本能だ。変化を嫌うのが本能であるが、変化しなければ生きていけないのも事実だ。その変化の先が堕落か成長か。この判断が難しい。今の所、私の評価基準は美しいか否かである。かわいいが正義であるならば、美しいは真理なのだ。
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