色が褪せてしまった花びらが強く冷たい風に煽られてあっけなく散ってゆく、それはそんなに大きな花じゃなかった、それはそんなに美しい花ではなかった、それはそんなに心を掴むような花でもなかった、ただ俺の座っている公園のベンチの、木々が植えられたスペースを丸く囲うブロックの隙間から逃げるように生えた花に過ぎなかった、俺はたまたま気付かずその正面に腰を下ろしただけだったのだ、それは数秒で終わり、俺は水を飲んだ、そうして、さっきまで花だったもの、埃のように散って短く刈り込まれた芝の上に散った花びらを眺めた、それはこの世でもっともわかりやすい運命の形だった、俺は静かに花の死を受け止めた、ちょっとした縁ってやつさ、陽射しは強かったが風は冷たく、暑いとも寒いとも言い難い奇妙な気温だった、ほんの少しシャツに滲んだ汗が風で冷える度に、体調を崩すかもしれないなという嫌な予感が過った、だけど、冷えた身体がまた日差しで温もるたびにそのことを忘れてしまうのだ、こんなことについて考え続けていてもキリがない、小さな花が散ったところで俺の人生になにかが生まれたり失われたりするわけでもない、それはほんの少し、公衆トイレを借りた公園で一休みをした時に偶然目にした光景に過ぎないのだ、それは例えば、公道で交通事故を目にしたとか、電車に飛び込んで死んだやつを見たとか、街で妙な宗教の勧誘に引っかかりそうになったとか、そうした出来事となんら違いはない、ただまあ…そうだな、それがあまりにも小さく、あまりにもパッとしない花だったからこそという説得力みたいなものは確かにあった、それは認めざるを得ない、別にこれは感傷的な話じゃない、どちらかと言えば生命力とかそういうものについて語っているのかもしれないね、自分でもよくわかってはいないけれど、そうだな、人の死とか、激しい崩壊とか―そういう衝撃的な要素がまるで無いぶん、逆に印象深く残ったと言えばいいかな、とても静かな衝撃のようなものがあった、と言ってもいい、そしてそれはあまりにも当り前に、あっけなく始まって終わった、どんなドラマティックな要素も無かった、録画してスローをかけて、ピアノ曲でも合わせてみれば少しはそうなるかもしれないけどね、そう、それは多分、ひとつの命が持つ絶対的な説得力なんだろうな―蝸牛を踏み潰したことあるかい?あの時に過る妙にしっかりとした罪悪感に近いものがあるかもな、それは蝸牛の殻が、やはりあまりにもあっけなく潰れてしまうからなんだろうな、ああ、蝸牛と言えばさ、俺の実家は山の側なんだけど、土止めのコンクリに何本も水抜き用のパイプが埋め込まれてるんだけど、そのパイプの中が軒並み蝸牛のアパートになっててさ、もう信じられないくらいの蝸牛がそこで生活してるんだよね、大きいのから小さいのまで盛り沢山さ、人生であんなに大量の蝸牛を日常的に目にしていたのは、あそこに住んでいた頃くらいだよね…ああ、そういえば、初めからあそこに住んでいたわけじゃなかったな、もう少し街の方に住んでいたんだ、近くに個人営業の電化店があってさ、ほら、昔よくあっただろ、ダルメシアンが置いてある…そういう店があったんだけど、店舗の隣の駐車場で店主が刺殺されたんだ、まだ俺が小さな子供の頃のことだよ、いや、そう考えると、街中に住んでいたころにはいろいろなことがあったな、小学生の頃には剣道をしていたんだ、地元のおじさんが学校の体育館を借りて教えていたんだよね、で、道着を着て家から通っていたんだけど、その道中に昔ながらの地元の商店街ってやつがあったんだ、いまはもうすっかり廃れてしまったけれど、その頃は凄く賑わっていたんだぜ、その商店街には食器の店があって―その店の横に小道があったんだ、そこに警察官が数人居てさ、なにかを調べていた、ああ、なんかあったのかな、と思いながら家に帰ると、家族が、あんた大丈夫だったか、なんてことを聞くんだよ、俺はなんのことだかさっぱりわからなくてなにって訊いたらさ、俺の帰り道で通り魔が、ひとりを包丁で刺して逃げたって話だった、あれはなかなかのインパクトがあったね、でもいつの間にか忘れちゃってたな…同じころか、少し前くらいか、家から自転車で十分くらい走ったところに大きな公園があってさ、遊具とか、グランドとか、噴水とか…いろいろな設備があったんだけど、その敷地の端っこにさ、小さな石で出来た舞台があったんだ、ライブハウスくらいの…そこの舞台である夜、四十代の女性がガソリンを被って焼身自殺をしたんだ、新聞に載ったよ、人間がそんな風に死ななくちゃいけないなんてどういうことなんだろうってその時思ったんだ、いまはもうリフォームされて跡形もなくなっているけれど、当時はその舞台の端っこがちょうど小柄な人が座っていたかたちに焦げていて、それは少なくとも十年くらいは残っていたんじゃないかな、なにも知らない子供たちは気にしないで遊んでいたけれどね、俺はその焦げ跡をみるたびに、名も知らないおばさんはちゃんと死ねたのだろうか、と複雑な気分になったものだったよ、それが自分の身近で起きた事件じゃ凄く印象深い出来事だったよね―あの公園の近くを通るたびに今でも思い出すよ…ああ、あの花のやつは、思っていたより大きなダメージを俺に与えたんだろうな、今になってそんな気がしたよ。
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事