粒上のチョコレートがふたつ、迷子のように転がった街路
バケットパンを抱えた自転車の少女がその脇を通り過ぎていく―気づかないことを宿命づけられてるみたいに
時刻は夕暮れの少しあと、淡い蒼と暗い蒼が
近しい他人のようにすれ違うあたり
古い石だたみのその道は移ろいゆくときを知らず、知的な蛇のようにただ景色を受け止めて
変われたり変われなかったりするものたちの声を(はしゃぐ子ら、買物帰りの主婦、年頃の学生ら、働くものたち、働かないものたち…そのどこにも属さない詩人というものたち)受け止めて寝そべっていた
時折迷い込んだ自動車がうろうろとして―付近の住人たちのある種の目つきを浴びながら虚勢を張って出て行くとき、道は必ず丘の上から
小さな小さな風を吹かせた
ボブ・ディランが知ったかで歌ったような風を
その街路を設計したのは、戦前に西洋のほうからやって来た建築家で
当時日本で集められる最高の職人幾人かと組んで創りあげた
あまり自分のことは話さない男だったが
この地を去るときに少しだけ理由めいたものを話した
『ここが一番良かった。わたしの描いたイメージを受け止めてもらうには。』
職人たちはずっと彼のことを思いながら自分の仕事を続けたそうだ
建築技術が変わり、同じ事が三分の一の時間で出来るようになって
そこから下ったところにある大きな街の男が
この街路をそっくり真似ようとして骨を折ったが
どうしてもうまく作る事が出来なかった
完成予定を三年ほど延ばしたころ
とうとう彼はまったく違うデザインで仕上げざるを得なかった
街の人々は彼のことを嘲笑ったが
この街路に住むものたちは
そんな話には何の関心も示さなかった
ある日米国の方からやって来た男がふらりとこの街路を訪れ
涙を流さんばかりに胸を揺さぶられた
男は故郷に帰る事が出来なくなり
街路の一角のアパートで暮らした
天気の良い午前には二階の窓を開けて
ベランダにもたれて海の向こうを眺めていた
人懐っこくていいやつだったが
友達と呼べるようなものは誰も居なかった
どこから流れてきたのかはっきりしない噂のひとつには
彼は本国に妻も子供もいるらしいという話があった
その男が街路に居ついてやや二年が過ぎたころ
街路で生まれて街路を出て行った女が不意に戻ってきた―小さな子供の手を引いて
女は米国人の住むアパートの
道を挟んだ向かいの小さな家に居を構えた、そこは女の父親が管理していた家で
誰かに貸していたらしいがもう長く空き家だった
少なくとも女の父親が死んでからはもうずっとほったらかされていた
越してきた日、女は
家中の窓を開けて大掃除をした
子供はかいがいしく手伝いをしていた
米国人は二階から見るともなくそれを見ていた(彼はいつもその部屋に居た―働いているようなところを誰も見たことがなかった)
子供がゴミを入れたポリ袋を持って表に出てきたところに
バイクが突っ込んできたのを見て彼は外に飛び出した
子供を避けようとしてハンドルを切ったバイクを
石だたみの路面はめちゃくちゃにつっ転ばせた
ライダーは放り出され、背中を強く打ったが
どうにか生きているらしくひどく呻いていた
米国人がアパートから飛び出て子供を抱き上げたころに
ブレーキの音を聞きつけた女が青ざめた顔で飛び出してきた
ダイジョウブ、と言って米国人は微笑み
子供を母親に抱かせてウィンクをした
母親は子供を見た
激しく泣いていたが腕をかすっただけらしかった
「ありがとう―サ、サンキュー…」
女は口早にそれだけ言うと、子供の手当てをするために家に駆け込んだ―米国人は無礼だと知りつつも開いた窓から中を覗いた
まだ整理されていない僅かな荷物の中から、女は絆創膏を探し出そうと焦っているようだった、子供はもう泣き止んでいた―女の切羽詰った空気をなんとなく感じているみたいに見えた
米国人はさっと自分のアパートへ戻ると、小さな箱を持ってすぐに戻ってきた
そして女の家の玄関をノックした
表では誰かが指示をしてライダーのために救急車が呼ばれていた
子供を抱えたまま女は玄関にやって来た「あ、さっきの…」と口篭った―彼が日本語をどこまで喋れるのか判らなかったからだ―ダイジョウブ、と男はまた言った
「スコシ、ハナセマス…ソレヨリ。」男が持ってきた小さな箱を開けると、中には最低限の医療道具が入っていた「ワタシ、ドクター…オイシャサン。」男はウィンクして消毒液とガーゼを取り出した
そんなことがきっかけで、米国人と出戻りの女は親しく付き合うようになった―女の助言で、男はきちんと許可を取って街路で最初の医者となった(下の街にしか医者は居なかった)
二人はやがて結婚した
そんな話が昔あった
粒上のチョコレートがふたつ、迷子のように転がった街路
道はもうずっと蒼く暗く
月はある程度雨雲に主張を譲っていた
古い石だたみのその道は移ろいゆくときを知らず、知的な蛇のようにただ景色を受け止めて
変われたり変われなかったりするものたちの声を受け止めて寝そべっていた
青い目の父の死を三年も知ることが無かった
ボブ・ディランが知ったかで歌ってたような風が吹いている
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