光線を静かに受け止めて微笑む君は
印画紙に漬けられたばかりの写真のように揺らいで
冷たい雨の後の風に添いながら消えた
あとには
見送り損ねた気持ちのような道端の植物に留まった雨粒と
どこかへ出すつもりだった手紙を手にしたままの
孵化を忘れた幼虫のような僕
入道雲が背を伸ばし
迷いない線のようになって
空はまるで青地に白を挿したタペストリ
「もう少しだけ」と鳴いて
死ぬために羽ばたくまばらな蝉
少し手前の日付に引き戻されるような風が今年初めて吹いて
僕は出し損ねた手紙を書き直しては破いて忘れた
駄々っ子の気まぐれみたいな季節の変わり目に
人はどうして救いを求めたりなんかするんだろう?
「拝啓」「お久しぶりです」「どうしてましたか」「僕のこと覚えてますか」
どんなに並べてもしっくりこないのは
ほんとは誰にも会いたくない自分を知っているからかもしれない
九月の夕立が背中を濡らして
また同じ交差点で頭上を交差する黒いケーブルを見上げる
がらんとした改札が寂しそうだったので
少し遠くの駅までの切符を買った
手ぶらでくぐる僕を見て
駅員は訝しげに目を細めた(多分僕の目の中に時代錯誤な哀しみを見たのに違いない)
各駅停車で三時間と少し
暇を潰すために漫画雑誌を買った
「清純な」女の子が「ビキニで」砂浜に膝立ちした表紙の
戦後の歌謡曲みたいな発車の合図が鳴って
あちこち痛み始めた年寄りのようにごねながら車両は動き始めた
ようやく規定のスピードがリズミカルに枕木を鳴らし始めて
ビキニの女の子の右の膝辺りをつかんでページをめくる
今日が発売日なのか
まだ新しいインクの匂いがしたような気がした
「昔見た何か」をスマートに描いたストーリー
ひどくつまらないその雑誌をひどく真剣に最後まで読んでしまっても
列車は目指す駅の半分にも達していなかった
しかたがないので次の停車駅で
逆からの列車とのすれ違いを待つあいだに似たような本をもうひとつ買った
(ついでに汚れたトイレで用を足した)
ようやく列車が動き始めたとき
初めの駅に居るような気がして涙をこらえた
見たことのないキャラクターが表紙のその本は
予想に反して結構面白かったけれど
それをもって列車を下りる事はないだろうことは判っていた
少し読んだところで目に痛みを覚えて
代わり映えのしない山間部の風景を眺めた
遠い山のふもとに立ち並ぶ瓦屋根の日本家屋
あの家の中にはきっと僕の想像もしないしきたりが溢れているに違いない
窓に額をつけていつの間にか眠り込んでいた
君の残像が晴れた日に干されたハンカチのように揺れる夢を見た
思念というにはあまりにも軽やかで
それをどう受け止めたものかと悩み続けているうちに
列車はいつの間にか目指す駅に着いていた
「終点―」と少し音の割れた車内アナウンスが言う
お終いの切符を買ったことになんて僕は気づかなかった
そこは無人駅だった
ゲートすらないひとつだけの改札を抜けると
舗装されていない狭い駐車スペースがあり
そこには一台の車も止まっていなかった
駅を振り返ると
昔はモダンだったのだろう白が雨風に汚れるままで
列車に乗り込もうとしてた車掌と目が合った
車掌はにっこりと笑うと会釈をして
終点の先へと列車を走らせた
きっとこの先で点検や掃除をして
明日僕の乗ってきた方角へと向かうのだろう
(それが二両編成である事にすら僕は気がつかなかった)
その列車に僕が乗っているのかどうかは今は判らない
その列車に僕がまた乗り込むかどうかなんてことは今は
駅の前には小さな商店街があったが
ほとんどの店はもう営業していなかった(もう二度と開かないのだろう店も幾つもあった)
筆圧の強い調子で公民館と書かれた平屋の向かいの商店で
アンパンとバターロールとパックのコーヒー牛乳を買った
「ご旅行ですか?」「ええ。」「それはそれは。」
この辺りにはなにもなくてネェ…と腰の曲がった老婆は必要以上に恐縮して見せた
僕は笑顔を返しながらお釣りを受け取った(笑うという行為は時折自惚れを匂わせる)
商店街の外れに三階建てのビジネスホテルを見つけた
「いらっしゃいませ」と昔のタクシーの運転手みたいな格好をした
フロントの老人が弁解をするように呟いた
シングルの部屋は風呂便所共同だと言うので
ダブルの部屋を取って料金を払った
「風呂便所共同がそんなに嫌なんですか」
鍵を渡す老人の目がそんな言葉を押し殺しているように見えた
部屋は古いけれど広々としていた
ベッドカバーの模様は胸を圧迫しそうな気がした
壁にかかった時計は二十一時だった
あの老婆はどうしてこんな時間まで店を開けているのだろう
写りの悪いテレビを見るともなく見つめながら
さっき買ったものを腹の中に送った
手作りらしいパンの生地はバサバサでお世辞にもうまくはなかった
少し休んで散歩をするつもりだったけれど
夜中過ぎまでうたた寝をしてしまった
身体を起こして両の目をこすると隣りに重みを感じたので
見ると君が笑いながら僕を見ていた
「こんなところにきたってしょうがないじゃない」
君はそんなことを言いたげだった(耳を澄ますと声すら聞こえそうだった)
「べつにしょうがなくはない」と僕は弁解した
そうさ
べつになにもしょうがないことなんかないんだ
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