享禄3年に長尾為景晴景父子は権威上昇のため将軍足利義晴へ「御服」の下賜を願い出で、許された(*1)。その上で、為景晴景父子はさらなる権威獲得のため、佐子上臈局の「唐織物」の拝領も願い出た。これは、長谷川伸氏「長尾為景と晴景」(『定本上杉謙信』、池亨・矢田俊文編、高志書院、2000)では将軍義晴の御内書により許可されるも佐子上臈の拒絶により代わりに堆朱の香箱と盆が贈られただけで失敗したとされ、上杉氏年表増補改訂版(池亨・矢田俊文編、高志書院、2013)においても同様の見解を示している。将軍の御内書まで公式に発給されながら、一人の上臈がそれを覆したのか疑問であり、史料を確認してみたいと思う。
まず、佐子上臈についてみてみる。羽田聡氏「室町幕府女房の基礎的考察-足利義晴期を中心として-」では、三淵氏の出身で足利義輝の乳母を務め天文3年に隠居したという。臈次は小上臈といい、上から大上臈、小上臈、中臈、下臈にランクごとに区別される中の上から二番目となる。また、同氏は「室町幕府女房は将軍の代替わりごとに一新される傾向にあり、将軍の意向が色濃く反映され、その動向に左右される側近衆的な要素が強いのでないか」と述べている。
[史料1]『新潟県史』資料編3、440号
唐織物之事、内々度々承候、於身一切無疎意候、御佐子上臈御局、是又聊無御等閑候。然此事ハ、仰之趣、先度も如申候、一段子細有之御事候、
(後略)
二月五日 (大館)常興
神余越前守(昌綱)殿
[史料2]『新潟県史』資料編3、470号
(前略)
一、唐織物事、当年も色々申入候処、此儀者、一段有子細御事候条、只今ハ不被進候、今度之御服之御礼御申之上、涯分可申達之由、上臈御局様、与州(大館常興)被仰事候、此旨御心得尤候、次今度之御礼被相急候者、可然存候、於其上、唐織之儀も可相調候哉、
(後略)
二月二十六日 神余隼人佑実綱
大熊備州(政秀) 御宿所
[史料1]と[史料2]は将軍の「御服」拝領後さらに唐織物について願い出たことに対し、幕府側が難しいという事を伝えているとわかる文書である。[史料1]より為景へ幕府が複数回に渡り「唐織物」の下賜を断っていると読み取れ、[史料2]よりその理由が「御服」下賜に対する謝礼が未納であったからだとわかる。さらに、謝礼が納められれば佐子上臈ら関係者も前向きであるという趣旨が記されている。
[史料3]『新潟県史』資料編3、98
(封紙ウハ書) 「ながおしなののカミ(為景)殿
御返事まいる さ(佐子上臈)」
御ふく御たまわり候につきて、文御うれしくミ参らせ候、まことに御めんほく、めてたくおほえさせ御ハしまし候、まつまつおもひより候ハぬ三千疋、めてたさ御うれしく思ひまいらせ候、又をかしけに候へとも、かうはこ(香箱)、ついしゅ(堆朱)、一ほん(盆)、同一まいらせ候、めてたくいまよりハにあい候御よふも申うけ給り候ハんとすると数々御うれしく思ひまいらせ候、なをよろつくわしき御事ハいよ殿(大館常興)よりおほせ事候へく候、かしく、
[史料4]『新潟県史』資料編3、115
(封紙ウハ書) 「ながおいや六郎(晴景)殿
御返事まいる さ(佐子上臈)」
御ふく御たまハり候につきて、文給り候、御うれしくミまいらせ候、まことに御めんほくめてたく思ひまいらせ候、まつまつ二千疋、御うれしく思ひまいらせ候。又めてたき志るしハかりに、をかしけに候へとも、ついしゅかうはこ(香箱)一、ついしゅぼん(盆)一まいらせ候、なをよろついよ殿(大館常興)よりおほせ事候へく候、かしく、
為景と晴景は [史料1][史料2]の後、為景が「御服」の御礼として足利義晴へ青銅一万疋太刀一腰馬一疋を始め、関係者へ多額の金品を献上した。[史料3]、[史料4]はその時、為景晴景父子が佐子上臈にも金品を献上したことに対する返事である。足利義晴や大館常興、晴光らも為景と晴景の二人へ返事を出しておりそこに書かれる献上された品の数値が為景宛と晴景宛とで異なるため、為景名義と晴景名義の別々で金品は献上されたと思われる。佐子上臈へも同様と思われ、[史料3]は為景へ[史料4]は晴景への返事である。これを読むとそれぞれ青銅を合せて五千疋も献上したとわかる。さらに「唐織物」の代わりに下賜されたとされる堆朱の香箱と盆についても言及されている。しかし、これらは献上品に対しての返礼品と読み取ることができ、足利義晴が為景の献上に対し「青銅一万疋到来、神妙、仍太刀一腰遣之候」(*2)と返礼品を送っていることと同じことである。よって、堆朱の香箱と盆は「御服」下賜に際しての御礼に関する返礼品であり、「唐織物」とは直接の関連はなかった。
将軍の「御服」の件ながら佐子上臈へ金品が献上されたのは「唐織物」の下交渉を兼ねていることは勿論であるが、前掲羽田氏論稿に「(女房の職掌として)あげられるのは、経済基盤とも関係する取次ぎである」とあるようにその政治的地位によるものもあろう。もしくは、[史料3][史料4]を「御服」という表現から将軍の「御服」に関する御礼のあった享禄3年にに比定したが、「唐織物」についての為景と晴景の御礼が享禄4年にみえ、この年に比定される可能性もある。どちらにしろ、堆朱の香箱と盆は返礼品であることに変わりは無い。
[史料5]『新潟県史』資料編3、295号
唐織物之事、遣晴景母分、得其意、可申下候也、
九月二十八日 (足利義晴花押)
大館伊予入道とのへ
[史料6]『新潟県史』資料編3、444号
連々内々御申候唐織物之事、被成其御意得、被対弥六郎殿(晴景)母儀、被遣之分ニ可申下旨、私へ以 御内書被仰出候条、為御拝見下進之候、一段之御面目、無比類事候、殊内々被望申候方少々雖有之、不被入聞食候由、局被申候、然間、先以御隠蜜之段、只今儀就承之、尤可然候、如此之次第、能々御分別候て、信州へ可被申下事肝要候、局よりも珍重之旨、よく心得候て、可申之由候、猶富森左京亮可申候、恐々謹言、
九月二十八日 (大館)常興
神余隼人佑殿 進之候
[史料7]『越佐史料』三巻、771頁
就唐織物遣之儀、青銅万疋、次太刀一腰、馬一疋、三千疋到来、神妙、猶常興可申候也、
七月二日 (足利義晴花押)
長尾信濃守(為景)とのへ
[史料5]はついに「唐織物」下賜を命じる御内書である。将軍から大館常興に伝えられ、[史料6]において常興が長尾氏配下の神余氏に伝えている。[史料5]は明らかに「唐織物」の下賜を表している。[史料6]はそれの添状であることから同様の内容であることは明らかであるが、内容を確認してみたい。「殊内々被望申候方少々雖有之、不被入聞食候由、局被申候」この部分は、密かに「唐織物」を望む人が何人かいたがその願いは聞き入れなかったと佐子上臈が言っていた、というふうになる。そして「先以御隠蜜の段」つまり越後長尾家へ下賜したことは隠密にして欲しい、と続く。[史料6 ]においても為景へ「唐織物」を下賜すると伝えていると明らかである。。
[史料7]は享禄4年に比定され、これを補強するものである。「唐織物遣之」とあり、「唐織物」が下賜されそれに対する為景晴景の御礼が京都へ届けられたことがわかる。
以上の検討により、為景と晴景は将軍「御服」に続き佐子上臈の「唐織物」獲得に成功していた。将軍や女房、近臣に対してパイプを築き多額の献上品を以て交渉する為景の政治手法は、京都において、上手くいっていたといえる。
*1)『新潟県史』資料編3、57号、294号などより
*2)同上、24号
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