前回は、大関氏について検討した。大関氏は栖吉長尾氏被官であったことから、それを継承した長尾景虎との関係も深い。具体的には、大関氏は栃尾衆と呼ばれる家臣団の構成員であったと言える。今回は、一通の文書から永禄初期における景虎と栃尾衆の関係性を考え、軍役体制の一端を見てみたい。
[史料1]『新潟県史』資料編3、561号
敬白 起請文
右意趣者、今度当郡御鑓御せんさくニ付而、吾等私領所納之義、少もわたくしなく、御日記ニしるしさし上申候事、
一、 御くんやく之義并御ようかひ普請以下、少も御うしろくらくなく可致之事、
一、 玖介ニたいし、於何事も、任 御諚、可走廻候事、(以下神文)、仍如件
渡辺将監
綱
大関平次左衛門尉
実憲
大河戸市介
忠繁
山沢与三郎
永禄三年 兼
五月九日 奉納
入道丸
金井修理介
重
大関勘解由左衛門尉
定憲
本庄玖介殿
宇野左馬允殿 御中
[史料1]は永禄3年5月に栃尾城を任されていた本庄玖介、宇野左馬允に対し出された起請文である。阿部氏はこの武将らを前期栃尾衆として位置づけている(*1)。
二つの条項では、軍役・城普請を務め、「御諚」すなわち景虎の命令に従い本庄玖介の元で働くことを誓約している。本庄玖介は栃尾を拠点としていた本庄実乃入道宗緩の関係者と推測でき、後に所見される本庄新左衛門尉の前身である可能性が考えられる。
ここで重要な点は、本庄玖介に対して奔走するべきことを記しながらも、あくまで「御諚」による景虎の意向が前提であることを明記してある点であろう。本庄氏と栃尾衆はいわゆる寄騎寄親関係とみなされ、景虎ー本庄氏-栃尾衆という階層構造がわかりやすく現れている。
「今度当郡御鑓御せんさくニ付而、吾等私領所納之義、少もわたくしなく、御日記ニしるしさし上申候」という部分からは、上記の誓約と同時に景虎が栃尾衆の軍役を定めるために「私領所納」について「御日記」つまり書上を提出させた、ことがわかる。
この「御日記」はどのような性格を持つものだろうか。中野豈任氏(*2)は天正2年9月の日付を持つ『安田領検地帳』と呼ばれる所領書上は、上杉謙信による天正3年2月『上杉家軍役帳』作成に先だって大見安田氏が軍役の対象となる恩給地の実態を明確にする目的として、それを整理し書上げたものである可能性を指摘している。[史料1]も「御鑓」=軍役と連動して「私領所納」の「御日記」が提出されていることから、上記の中野氏による推測と同様の流れが読み取れるであろう。
[史料1]は永禄3年である一方、『安田領検地帳』は天正2年成立とあるが、これは譜代の栃尾衆と揚北衆である大見安田氏の性格の差に由来するものであろう。
また、類似の例を挙げれば、「諏訪左近允・山岸隼人佑人数致穿鑿、可越日記候、并其地ニ従当国差置候者共之人数をも、能々記可越候」(*3)、永禄11年に上杉輝虎(謙信)が沼田周辺の軍備充実を目的に在番している軍の把握のため書上を提出させている。諏訪氏、山岸氏共に譜代家臣であり、特に山岸氏は黒瀧衆との関わりも想定される。
以上から、天正3年『上杉家軍役帳』作成より大きく遡る永禄3年時点で、栃尾衆といった景虎(謙信)の譜代・旗本と呼ぶべき家臣団に対しては対象の所領を把握した上で軍役を賦課する仕組みが整っていたことが理解できる。
長尾景虎の家臣団における「衆」に関してはさらなる考察が必要であると感じており、今後の課題としたい。
*1)阿部洋輔氏「古志長尾氏の郡司支配」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)
*2)中野豈任氏「いわゆる『安田領検地帳』について」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)
*3) 『新潟県史』資料編5、3790号
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