戦国期越後国には上杉氏として様々な人物が所見されるが、政治的立場が重要であることが明かでありながらその詳細が不明である者が複数人存在する。彼らは越後の政治の中枢と深く関わっていたと思われ、その動向を考えることは越後の政治情勢を知ることに繋がると言える。今回から、そのような人物について整理していきたい。
具体的には『越後過去名簿』に見える上条上杉美濃守、上条上杉弾正少弼入道朴峰、『大宮家文書』に見える上杉房安が該当する。彼らに関する史料はごく僅かであり、確実なことを言うとすれば、詳細は不明としか言いようがない。しかしそれでは彼らや上杉氏の系譜に関する理解は進まないわけであるから、残っている史料から読み取れる点についての整理をし、そこから一つの試案を作成してみたいと思う。以下、便宜的に刈羽郡鵜川庄上条を拠点とする上条氏を刈羽上条氏、古志郡を拠点とする系統を古志上条氏とする。
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今回は、上条上杉弾正少弼入道朴峰(以下朴峰)を考える。
それでは、各史料の所見を見ていく。
『越後過去名簿』(*1、以下『名簿』)
永正11年5月3日「春円慶芳 越後長尾為景御新蔵御腹様 上杉トノ上条殿上」
天文4年10月7日「朴峰永浮庵主 上杉弾正少弼御新蔵立 上条入道」
『公族及将士』(*2)
「朴峰永浮庵主 てんほさま御そんふ」
『天文上杉長尾系図』(*3)
長福院の前には「天祥祖晃」=上杉十郎定明が載り、「十郎殿無御息」とある。
「齢仙永寿 長福院殿 朴峯様ノ御息安夜叉丸殿
上杉少弼入道殿御事也」
「天受玄信 峯泉寺殿 長福院殿御舎弟惣五郎殿 頼房」
頼房の項には「定実ノ御孫子」とある。
史料を総合すると、上条上杉弾正少弼を名乗った朴峯の子として長尾為景の正室である天甫喜清、古志上条上杉定明に養子入りした安夜叉丸とその弟惣五郎頼房がいた、ということになる。永正11年に供養された春円慶芳が朴峰の妻、天文4年に朴峰を供養した「御新蔵」が朴峰の後妻と理解されている(*2)。
米沢藩の系図『外姻譜略』(*4)でも長尾為景室の父は「朴峯永諄庵主」と伝えられている(*5)。
では、朴峰についてその系統を推測し、人物比定を試みてみたい。
まず、上条定憲(弥五郎/播磨守)と朴峯の関係を確認しておきたい。『藤原姓上杉氏系図』(*4)で「定憲」という人物が「安夜叉丸」のことで、山内上杉顕定(可諄)養子となり上杉十郎定明の跡を継ぐ、とあることから上条定憲の父が朴峯とされることがある。
しかし、「古志上条上杉氏の系譜」で確認したようにこれは上杉十郎憲明という人物の事績を表わしており、上条定憲とは関係がない。安夜叉丸も『名簿』から大永2年の死去が確認されるから、定憲とは別人である。さらに『名簿』によれば、上条定憲の母は「芳雲寺殿 上杉ハリマ守御母花芳公 上条」として大永4年に供養されている。先にみた朴峰の妻とは異なる人物である。以上の理由から、定憲の父が朴峰である可能性は低いといえる。
また、『天文上杉長尾系図』「定実ノ御孫子」という記載から定実、頼房と朴峰の関係を考えたい。そのままに受け取れば、定実の孫が頼房だから頼房の父朴峰は定実の息子となる。ただ、天文期に伊達氏との入嗣問題が生じたことからも定実には息子はおらず、可能性としては今福匡氏(*6)が述べるように定実の娘婿が朴峰であった場合がなる。しかし、朴峰は娘が永正11年に「長尾為景御新蔵」見えるように為景の一世代上となり、定実はその為景と同世代である。従って、朴峰と定実の娘では世代が離れすぎていると感じる。さらにその子として頼房を想定すると尚更である。「古志上条上杉氏の系譜」で見たように『天文上杉長尾系図』もそのまま鵜呑みにできる史料ではなく、慎重な検討が必要であろう。ここでは朴峰と定実の血縁関係や婚姻関係は認めず、「定実ノ御孫子」についてもそのまま受け取ることは避ける。この部分の解釈については一旦保留し、後日に検討したい。
さて、片桐昭彦氏(*2)は『名簿』における記載「上杉トノ上条殿上」から、朴峰を「上条上杉家当主」と位置づけている。為景の正室を輩出しているわけだから、上条氏の一系統として存在していたと考えるのが妥当である。
同氏は、朴峰は後に上条政繁が継いだ系統ではないか、としている。しかし、以前当ブログ「上条上杉氏の系譜」で検討したように政繁はその仮名などから刈羽上条氏を継いだと推測され、刈羽上条氏には朴峰と同時代に上条定憲が当主として存在している。
定憲は永正6、7年の山内上杉可諄の越後侵攻や永正10、11年の内乱、享禄・天文の乱で一貫して長尾為景に敵対しながらも、永正初めから天文5年に死去するまで刈羽上条氏として存在する。定憲が上条を拠点にしていたことは、天文の乱で「上条要害」が為景に味方する近隣の領主毛利安田氏らに攻撃されているなど上条の地が争点になっていることから、明らかである(*7)。長尾為景の活動時期のほぼ全てで定憲が刈羽上条氏として見えることは、朴峰が刈羽上条氏の人物である可能性を否定する。先述のように血縁関係も想定しづらいから、朴峰を刈羽上条氏当主と位置づけるのは不適切であろう。
では、もうひとつの系統である古志上条氏について見てみる。『両上杉系図』には「房実」の子として「某 兵庫頭、号上条少弼入道」とある。すなわち、古志上条氏の系統であり私の検討に従えば定俊にあたる人物ということになる。しかし実子の安夜叉丸が養子に入ったことを考えると、朴峰を古志上条氏の人物とするのは不自然である。同系図では「頼房」が「房実」の兄「定顕」の子とされるなど明らかにおかしいところもあるから、古志上条氏に養子入りした安夜叉丸とその父朴峰を混同している可能性が高いだろう。
ここまで刈羽上条氏、古志上条氏について朴峰との関係を否定した。
ここで私なりの結論を言うと、琵琶嶋を拠点とした琵琶嶋上杉氏が実のところ上条上杉氏の一支流であり、永正期にその系統に名前が見える上杉正藤が朴峰にあたる人物として最も有力であると考えている。
琵琶嶋上杉氏が上条氏支流であることを示す史料はこちら
琵琶嶋上杉氏は八条上杉氏の後身とする説(*8)があるが、以前私は「琵琶島上杉氏の系譜」にてその説は根拠が不足している、と述べた。理由として、両者の繋がりが琵琶嶋を拠点とするという一点に留まる上、八条上杉氏が白川庄において天文期まで存続しているという点がある(*9)。
「琵琶島」の名が地名ではなく氏族の呼称として文書上で確認されるのは天文末期であり、為景・晴景期においては確認されない。為景・晴景期には「上条」と呼称されていたのではないか。「越ノ十郎」(*10)や「古志」(*11)などと表現される古志上条上杉氏が、『名簿』で「上条上杉十郎」(天文3年に供養された)と表記されている事例は類似ケースであろう。
また、天文4年8月長尾為景書状(*12)には「凶徒等相集、琵琶島へ及行候」とあり、多くの勢力が上条定憲に与した天文の乱においても琵琶嶋上杉氏は為景に味方していたことが推測される。これは琵琶島上杉氏と為景の間に婚姻関係といった強い繋がりを示唆しており、為景の舅である朴峰が琵琶嶋上杉氏であるならば合理的である。
よって、琵琶嶋上杉氏は八条上杉氏ではないという考えの元、琵琶嶋上杉氏が永正期に長尾為景によって擁立された上条上杉氏の支流ではないかと推測する。つまり、琵琶嶋上杉氏は長尾為景と近い関係にある上条上杉氏の分家として位置づけられると考える。
ただ、そうすると琵琶嶋に入部以前の存在形態は全くの不明である。想像を飛躍させれば、当ブログ「古志上条上杉氏の系譜」で検討したように山内上杉顕定(可諄)の介入により古志上条氏には憲明が房実の養子として入り、後継者であった定俊はそこから外された可能性がある点は参考になるかもしれない。つまり、同時期に山内上杉氏と近い立場を取る刈羽上条定憲が、古志上条氏と同様に顕定の後ろ盾により当主に就任したとすれば、刈羽上条氏内部でも対立が生じていた可能性があると推測されるのである。越後において山内上杉氏権力の影響力が強かった点は確かであると思われ、今後検討していきたい。
以上を踏まえて推測すると、琵琶嶋において永正5年に為景と共に寄進状(*13)を発給している上杉正藤こそ上条上杉弾正少弼入道朴峰である可能性がある、といえるだろう。
文書からもその徴証が窺える。
[史料1]『新潟県史』資料編3、2276号
禁制 鵜川八幡宮
一、 於境内殺生之事
一、 猥伐採竹木事
一、 喧嘩狼藉之事
附り、放火之事
右之条々堅令制禁候也、
天正十八年十一月二十八日 弾正少弼藤
[史料1]上杉正藤寄進状と同じ「鵜川神社文書」に伝来する禁制である。日付は上杉景勝の治世であり、花押も上杉景勝の天正期のものと一致するから景勝の発給と見られる。天正18年後半に景勝は出羽で軍事行動に臨んでいるから、その人員輸送等で柏崎に軍兵が滞在したため鵜川神社に禁制が必要となったのだろう。
ただ、注目は署名の「弾正少弼藤」であろう。景勝も弾正少弼を名乗ったから単なる誤記と言ってしまえばそれまでであるが、その誤りが生じた背景には過去に鵜川神社に縁の深い上杉正藤が弾正少弼を名乗っていた点があるのではないか。
間接的にではあるが正藤と朴峰に接点が見えることは示唆的である、と感じている。
以上、上杉弾正少弼入道朴峰について検討した。推測に頼る部分も多くなってしまったが、ひとつの仮説として提示しておきたい。
*1)山本隆志氏「高野山清浄心院『越後過去名簿』(写本)」(『新潟県立歴史博物館研究紀要』第9号)
*2)片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)
*3)『越佐史料』第三巻、17頁、
*4)『上杉御年譜』第二十三巻(米沢温故会)
*5)尤も、米沢藩は謙信の母が側室であることを憚ったためか正室天甫喜清と後室謙信母を混同している。結果、様々な誤解が重なり朴峯永諄庵主=長尾肥前守顕吉とされてしまっている。天甫喜清の父は上杉弾正少弼であることは上述のように明らかで、謙信母の父は古志長尾房景であるから、『外姻譜略』の記述には誤りがある。
*6)今福匡氏『上杉謙信』(星海社)
*7) 『越佐史料』三巻、798頁
*8)森田真一氏「越後守護家・八条家と白川荘」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*9)『名簿』に天文11年8月、「白川庄八条憲繁」が供養されている。
*10)『新潟県史』資料編3、832号「越後平定以下祝儀太刀次第写」
*11)『越佐史料』三巻、806頁。天文6年長尾為景が下倉城在城衆へ「古志其他相談」を命じている。古志は古志上条氏のことであろう。同じ頃三条山吉氏も下倉城への援軍として活動しており、永正7年上田庄、上野国沼田庄での軍事行動における上杉定俊、山吉孫五郎の活動と共通性がある。
*12)同上、817頁
*13)『新潟県史』資料編4、2269号
※2021/2/17 上杉定実、頼房と朴峰の関係について加筆した。
※21/5/9 リンクを追加した。
※23/8/23 琵琶嶋氏が上条氏出身であることを示す『先祖由緒帳』記述についてのページリンクを追加した。
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