鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

景虎と上田長尾政景の抗争2

2020-06-03 06:58:39 | 長尾景虎
前回の続きになります。

次は11月長尾政景判物(*12)に注目したい。これは従来天文20年に比定されている。が、ここで天文18年と仮定してみよう。「去正月、従古志郡之動ニ、祖父入道并父清左衛門討死」とある。佐藤氏は古志郡に近い小平尾城に居たと思われ、古志郡周辺でも戦闘が行われていたことが考えられる。ここで古志郡での軍事行動に関する史料をみると、[史料1]庄田定賢・小越平左衛門尉宛長尾景虎書状(*13)がある。宛名の小越平左衛門尉は他の景虎発給文書ではすべて「との」敬称(*14)であり、「殿」敬称はこれのみである。広井造氏「謙信と家臣団」(*15)によると「との」敬称は陪臣の者に対して使われる敬称であった。小越平左衛門尉の「との」敬称は家督相続後まもなくみえることから、「殿」から「との」への変化は景虎の家督相続にあったとみて間違いないだろう。すると、(*13)書状は景虎の栃尾城主期ということになり、天文12年から17年末までになる。ここで、書状中「栃尾之地へ早々相移候」の文言より景虎が栃尾城より離れていることがわかり、それは月日からもちょうど黒田の乱際し上郡へ出陣していた時ではないかと想定され、これを天文17年と推定できる(前々稿参照)。さらに栃尾の常安寺に宛てた天文20年3月2日長尾景虎判物(*22)に「先年不慮之鉾楯在之節、被抽忠信条無比類候」とある。この不慮之鉾楯を19年末から20年始めにかけての古志郡での抗争とすると「先年」という表現にそぐわないが、上で仮定した17年後半から18年始めにかけての抗争ならば表現にも適当である。よって、ここで(*12)判物を天文18年に、(*13)書状を天文17年に比定する。すると、天文17年後半から18年はじめにかけ古志郡と魚沼郡北部で抗争が行われ、(*12)の佐藤氏討死の事実や長尾政景書状(*16)にみえる発智氏の一族が景虎方に奪われる事実などから景虎軍が優勢に立ったと思われる。

[史料1](*13)
栃尾之地へ早々相移候事、挊共無是非候、其元各有談合無相違刷簡心候、無道以下堅可申付候、委細之段至届可申候。謹言。
九月九日     景虎
小越平左衛門尉殿
庄田惣左衛門尉殿

 [史料2](*17)
為真板倉へ相助移、然与其地在城之由、陣労感之入候、其元備等堅固之様、弥其挊簡要候、謹言、
二月二十一日     景虎
庄田惣左衛門尉殿

ここで18年1月合戦後の推移を考えるに従来年次不明とされている[史料2]長尾景虎書状がある。書状中の「真板倉」は下倉城近隣の俎板平城(根小屋城)を指すと思われ、17年後半の古志郡の抗争から18年1月の魚沼郡北部の戦いを有利に進めた景虎方が2月になって古志郡にいた庄田らを助勢に入れ下倉城俎板平城ラインを防衛線として確立したと考えると自然である。

さて、その後長尾政景はどうしたであろうか。ここで、従来他の政景の乱関連と同様に天文20年とされてきた波多岐庄での合戦が2月なのである。ここまでのことを踏まえると1月に魚沼北部で後退を余儀なくされた政景は2月に波多岐庄攻めに転進したと考えられないだろうか。上杉御年譜や上杉家譜の天文20年の項に対立したのみで合戦の記述がないのもこれで説明がつく。要するに史料に残るような大きな合戦は天文18年を中心に繰り広げられた、ということだ。また、前述した(*11)書状の上野氏への軍事行動を期待するような一文もこれを補強する。よって、政景方の波多岐庄攻めも天文18年に比定できる。波多岐庄攻めは関連文書(*18)よりわかるようにこれは景虎方の上野氏中條氏らによって撃退された。

政景は3月(当時の旧暦では1~3月が春)までに和睦を結ぶこととなった。これは政景方の金子尚綱(*7)書状に「春以来府内へ無為被申刻」とあり、政景からの申し出だったとわかる。この背景を考えてみると、黒田秀忠の乱がある。黒田秀忠が前年より二度にわたり反乱に及ぶ中、景虎に鎮圧されたのが天文18年2月であった。黒田の乱のため上郡を離れられなかった景虎がそれを鎮圧し、全軍を以って政景方に対抗してくることを恐れたのではないだろうか。天文17年後半から18年2月までは黒田氏と上田長尾氏などが連携して景虎を攻撃していたが、その黒田氏が滅んだ時点で上田長尾氏単独では不利となり、直接対決で消耗するより早期の和睦で自らの影響力を残そうと考えたとすれば辻褄が合う。第一次政景の乱において景虎の出馬はなく、合戦も撃退されたとはいえ攻め込んでいたのは政景であった。この時点では政景は完全な敗北とは思ってなかっただろう。しかし、和睦の条件として景虎への従属を求める人質の提出や所領返還を求められたことなどが、第二次政景の乱へと繋がっていくことになったかと思う。

次に天文20年8月に最終的な和睦に至る第二次政景の乱に言及したい。
第二次政景の乱としてみえる史料は9月長尾景虎書状(*19)である。この書状中に庄田の名が見え、庄田は第一次政景の乱においては(*13)より17年9月に栃尾城にいるのがみえるため、この書状を第二次政景の乱関連として従来通り天文19年9月に比定する。この年12月の松本右京亮宛長尾景虎書状(*20)に「上田与当郡の(欠)、万拙者慮外之輩出来候」とある。この「当郡」は、小越平左衛門尉宛長尾景虎書状(*21)にある「今度村松要害攻落刻、上屋被討捕之段、神妙至候」において村松城が古志郡にあり「今度」の表現から景虎自身の出陣が想定されることから、古志郡とみられる。従って、天文19年の9月頃に上田長尾政景が村松城を始めとする古志郡の勢力と共に景虎に敵対したことがわかる。

[史料3](*54)
上田之一義、去春以来、無為之悃望間、内々可任其意覚悟候処、落着之義、兎角延引、剰無首尾子細候共、此時者計策眼前ニ候哉、所詮、頓速可成動候、然者来朔日、雖可為御陣労候、彼口御動可為簡要候、委曲従各所可申入候、恐々謹言、
七月二十三日     長尾平三景虎
平子孫太郎殿

その後は、村松城の落城など景虎の古志郡制圧の成功によって[史料3]長尾景虎文書(*54)に見られる「上田之一義、去春以来、無為之悃望」のように政景は天文20年春和睦2を結ぶことになる。そして、(*54)に見られる通り「落着之義。兎角延引」の事態に際し、8月の景虎出陣計画により和睦3が完成し事実上政景の従属が遂げられた、と考える。

以上が、私自身の私見を交えた上での長尾政景の乱についての年次比定である。


*12)同上、56号
*13)同上、237号
*14)同上、47号、814号
*15)池亨・矢田俊文編『定本上杉謙信』、高志書院、2000
*16)『上越市史』別編1、43号
*17)同上、231号
*18)同上、48号、50号
*19)同上、36号
*20)同上、38号
*21)同上、47号
*22)同上、49号。新潟県史はこれを花押堅が他に類を見ないとし要検討としているため、注意が必要である。
*23)国衆の関係性は黒田基樹氏「戦国期東国の大名と国衆」『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院、2001年、を参考にした。


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