イチゴロー’s Memorandum

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ポーランドと日本の意外な関係 ~学校では教えてくれない~

2018-03-20 20:55:31 | 伝える
ポーランドは中東欧諸国の中でも親日国です。大学でも日本語学科は大人気なのだそうです。
それはなぜなのか少しばかり語りたいと思います。

ポーランドはその位置から周辺国から何度も侵略され領土を分割された歴史があります。近代国家として独立したのはそれほど古くはなく1918年です。しかし、その後もソ連やドイツに侵略されています。
ポーランド独立以前、ポーランドの独立運動家達は家族とともに流刑地であったシベリアに送られ、病や飢え、寒さに苦しめられていました。そして親を失った子供達が大勢、取り残されてしまいました。
1919年にウラジオストクに「ポーランド救済委員会」が設立され、親を失った子供達だけでもポーランドに送り返そうとしていました。
1920年のポーランド・ソ連戦争の時のことです。戦争のためにシベリア鉄道が使えなくなってしまいました。
子供達を救う方法はないものかと「ポーランド救済委員会」は欧米諸国に救援を求めましたが、ことごとく拒否されてしまいます。困り果てたポーランド救済委員会は窮余の一策として日本に救援を要請することにしました。
当時、日本とポーランドは外交官の交換もしていない状態です。要請を受けた日本は2週間ほどで子供達の救援を決定し、日本赤十字社がシベリア出兵中の帝国陸軍の支援を得て1921年の夏までに375人もの子供達を救出し、ウラジオストクから敦賀まで陸軍の輸送船で運び、子供達は敦賀で休養し、そこから鉄道で東京に向かいました。
このことも敦賀港が「人道の港」と言われている由縁の一つです。
1922年にも日赤による救援が行われ388人のポーランドの子供達が敦賀に上陸、大阪に向かいました。

ウラジオストクを経由して敦賀に上陸した子供達を待ち受けていたのは、日本人の温かいもてなしでした。医師による診察、衣服や食事などが提供されました。また、病気を患っていた子供には十分な治療が施されました。
東京では日赤本社病院に隣接した「福田育児院」で、大阪は「大阪市公民病院付属看護婦宿舎」でそれぞれ療養することになりました。

日本国内の反響はどうだったのでしょうか。
多大な寄付や衣服、おもちゃなどの寄贈はもちろんのこと、学生たちや婦人会による慰安会が催されたり、博物館の見学などが行われたのです。無料での歯の治療を申し出た歯科医や散髪をした理容師の方もいたようです。
日赤を後援されていた貞明皇后も福田育児院に行啓され、子供達を慰めました。

日本で療養し健康を回復した子供達は横浜、神戸の港から祖国ポーランドに帰ることになりました。
子供達は自分達を世話してくれた人々と別れることを嫌がったそうです。
埠頭では君が代やポーランド国歌を歌い、船上からは「サヨウナラ」「アリガト」を大声で繰り返したそうです。また、見送りの人々は子供達が乗った船が見えなくなるまで見送ったそうです。
ある船長は航海中、子供達の部屋を一つ一つ見回り、熱が出てないかおでこに手を当てたり、毛布を肩までかけていたそうです。

無事に祖国に帰り着いた子供達は「極東青年会」を結成。第二次世界大戦ではドイツ軍に対するレジスタンスとして活動していました。ある時、ドイツ軍が隠れ蓑にしていた孤児院に踏み込み、強制捜査を始めたのですが、急を聞いて駆けつけた日本大使館の書記官がその孤児院は日本大使館の保護下にあることを強く伝え、ドイツ軍を引き上げさせたこともあるそうです。

極東青年会の副会長の礼状の一部を紹介したいと思います。
シベリアからの孤児救出に対する感謝の言葉の後、次のように述べています。
「ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。
ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを伝えたい」

このお話はここで終わりではありません。続きがあります。
1996年の夏、前年の阪神淡路大震災の孤児30人をポーランドに招待したのです。「何時までも恩を忘れない国民」は恩返しをしたのです。
震災孤児達が帰国する前のお別れパーティではかつてのシベリア孤児が高齢であるにもかかわらず、自分たちが助けられた話をするために出席しました。

この話はほとんど知られていませんでした。しかし、1993年から駐ポーランド大使を務めた方が
シベリア孤児の話を知り、1995年に8名のシベリア孤児の方々を大使公邸に招待しました。もう高齢の方々です。家族に付き添われてやっとの思いで辿り着いた方もいらっしゃいました。
その方は「私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。しかし、もうそれは叶えられません。ですから大使から公邸にお招きいただいたと聞いた時、這ってでも伺いたいと思いました。しかも、この地が小さな日本の領土だと聞きました。今日、日本の方に、この場所で私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう死んでも思い残すことはありません」と述べたそうです。
このことが伝わり、TV番組で取り上げられ、私もこの事実を知ることになりました。

詳細な部分は省略していますので「ポーランド孤児」で検索するとネット上にそれこそ無数とも言えるほど情報があります。興味のある方、詳しく知りたい方は調べてみると良いでしょう。また、YouTubeにもたくさんの動画がアップされています。

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