*三好十郎作 栗山民也演出 公式サイトはこちら 新国立劇場小劇場 13日で終了
9期生9名の出演者のプロフィールを読むと、実年齢に多少の幅はあるにせよ、ほとんどが80年代後半から90年代後半にかけての生まれの俳優である。脇を支える5人の先輩たちもいずれも若い。登場人物は主人公の娘ステが10代、富田家の子どもたちやその両親など、20代から50代くらいまでであろう。つまり自分の年齢よりずいぶん上の人物を演じなければならないということだ。
人物の性格や背景を考えると、いかにも口減らしで東北からやってきた娘、地味な身なりで説教くさい慈善団体の女性、うわべは上品で慈愛に満ちた顔をしているが、一皮むけば使用人に乱暴な口をきいて支配する奥さん、太宰治を気取ったかのような長男、その気まぐれな長男に弄ばれ、子を身ごもった薄幸の女中などなど、全編「いかにも」な人々が、これでもかというくらい「いかにも」な物語を、「こてこて」と言ってもよいくらい濃厚に展開するのである。
にもかかわらず、無理な若作りやその逆に感じたところはまったくといってよいほどなかった。
これは実に不思議なことだ。むしろ俳優の実年齢に合わせ、若手、中堅、ベテランが顔を揃えたほうが、「こてこて」度が逆効果になり、くさい芝居になるのではと想像されるのだ。
人物のキャラクターや物語の展開は、それほど意外なものではなかった。嘘と偽善に満ち満ちた薄っぺらな金持ちの家にやってきた素朴な娘。人々の暮らしぶりに驚きつつ、正直に嘘を言わない姿勢を愚直に貫き、資産家と慈善家の化けの皮を剥ぐ。終盤の晩餐の席で、ステが見たまま聞いたままを話して人々が仰天、大騒ぎになるさまは拍手したくなるくらい小気味よい。しかし当然のことながら、ステは女中を頚になり、みずから「淫売になる」と言う。寄る辺のない娘の末路はそれしかないのであり、助けの手を差し伸べるものはいない。
いわゆる研究所の卒業公演というものにはほとんど行ったことがない。そういった知り合いがないことや、同じ見るならプロの舞台を、という思いがあるためだ。「ときどき行きます」という方は、「俳優の演技ではなく、戯曲に興味があれば行く」とおっしゃる。卒業生がたくさんいる場合、登場人物の多い戯曲でなければむずかしい。となると、通常の劇団の公演ではなかなか実現しない大人数出演の戯曲が選ばれることもあり、「戯曲が舞台に立ちあがるのを見るチャンス」だからだそうだ。なるほど。
しかしながらいずれもやや上からものを見る感じであり、この日の観劇で、自分はこれまでの考え方を大いに反省した。みっちり勉強し、研鑽を積んだ方々の舞台は、力強く清々しい。達成感に満ちた表情が並ぶカーテンコールをみながら、この俳優さんたちがぞんぶんに力を発揮する機会がつぎつぎに与えられることを心から願った。
研修所の学びを終えて、俳優たちは新しい舞台に向かって旅立つ。おめでとう、負けるな。
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