因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

ゲンパビ#9『キスミー・イエローママ』

2014-09-03 | 舞台

*阿部ゆきのぶ脚本・演出 公式サイトはこちら 下北沢OFFOFFシアター 31日で終了 (1,2,3,4
 タイトルの「イエローママ」とは、死刑執行に用いる電気椅子(Wikipedia)のことである。アメリカ各州に設置されている電気椅子にはさまざまなニックネームがあり、「イエローママ」とは、アラバマ州の呼び名とのことだ。

 劇団公式サイト、公演チラシに本作の概要が記されている。その文体は概要というより詩のようだ。
「いつとも知れない昔、どことも知れない町に、小さな電器店を営む兄弟がいた。(中略)ある時二人の元に、大きな仕事の話が舞い込む。それは新しく死刑の執行に用いられる事になった道具、『電気椅子』整備の依頼だった」
 死刑を扱った舞台としては、風琴工房『ゼロの棺』(詩森ろば作・演出)は死刑執行人と死刑囚それぞれの家族や友人たちの心模様、スタジオソルトの『中嶋正人』(椎名泉水作・演出)は、死刑執行人の葛藤、渡辺源四郎商店の『どんとゆけ』(畑澤聖悟作・演出)は、被害者遺族がみずから死刑を執行するという近未来の物語である。
 ファンタジックな舞台の印象が強いゲンパビが重苦しい題材に挑んだ。
 さあどうなるか。

 物語の設定を近未来にするSF風の舞台は珍しくないが、本作は「いつとも知れない昔」に戻ること、さらに「どことも知れない町」である。それがどういうことなのか。

 登場人物の名前はすべてカタカナであるが、日本人と西洋人の名前を折衷したような名であるために、結果として「どことも知れない町」ということになる。携帯電話やパソコンのたぐいがいっさい出てこないことやダイヤル式の電話などから、「いつとも知れない昔」の設定になる。

 拘置所のある小さな町で電器屋を営む兄弟、その友だちや恋人、拘置所の職員が登場し、拘置所近くのバーには気風のいいママがいて、町の男たちはしょっちゅう足を運ぶ。職人気質の兄と明るく数字に強い弟は早くに両親を亡くし、寄り添って生きてきた。

 絞首刑が残虐であるという理由から、死刑執行に電気椅子が導入されるようになった・・・というからにはアメリカの状況が反映されており、舞台には登場しない人物の名前もウィリアム、アーネストなど、日本人とは言いかねる様相である。しかし人々のふるまいやぜんたいの雰囲気はまごうことなく日本である。まずここでつまづく。

 時間と場所の設定を敢えてぼかし、「どこかの町の、いつともしれない物語」とする舞台は、これまでたくさんみてきたので、本作についてもとくに気構える必要はなかろうと予想したのだが、それができなかった。和洋折衷の名前、舞台の小道具、電気椅子にまつわる台詞や話の流れなどから、「ほんとうはいつなのか、場所はどこなのか」と知らず知らず答を求め、なぜそうしたのかという作者の意図を知りたくなるのである。しかし舞台はそれらの疑問に応えることがないので、どうしても不完全燃焼感が残る。近未来のSFではなく、敢えて「いつともしれない昔」、つまり過去に戻る設定であることに、作者のどのような意図があるのか。

 また時間と場所をぼかした場合、慎重な台詞、周到な物語の流れをつくらないと、小さなところにつまづきやほころびを生み、結果的に劇ぜんたいがぼやけた印象になる。
 たとえば、いかになじみであるからといって、「今度絞首刑に変わって電気椅子が使われることになった」という企業秘密、極秘情報は、拘置所職員が飲みに行った店でママを相手にする話ではなかろう。
 電器店の兄が電気椅子整備に異様な執着を示すことが重要なポイントで、兄弟の両親がなぜ早くに亡くなったのかが次第に明かされていく。しかし兄が仕舞いこんでいるピストルの謎が明かされたとき、「殺人に使われた凶器がなぜ息子たちの手元にあるのか」という疑問が残る。示唆する台詞があったのか、記憶がはっきりしない。
 バーのママが引き取って育てた女の子は、年ごろになって恋人ができるが、彼は薬物売買や殺人の罪で起訴され、死刑が執行される。傷ついた女の子は電気椅子による死刑に反対する運動を起こして、これが弟の友人である政治家志望の男性と絡んで新しい展開になるのだが、恋人が死刑になるプロセスがあまりに早急なので、説得力を欠くのである。

 つまり時間と場所を指定しないことのためにかえって制約を生んだり、整合性に欠ける箇所が露呈したり、結果的に「いつともどこともわからない」ことのマイナス面が強調されてしまったのではないか。

 演出の意図がそのまま舞台での俳優の演技に反映されており、演技が役柄、俳優の資質、劇ぜんたいにバランスがよければ問題ないのだが、目の前の俳優の演技に疑問がわいた場合、理由は類推するしかない。
 以前ある舞台をみたとき、劇作、演出両面に違和感があり、「稽古の段階で、プロデューサーなりベテラン俳優なりから若手の劇作家、演出家に何らかの示唆ができなかったのか」と疑問がわいた。しかし後日、ベテラン俳優さんたちのほうが主導権を握ったらしいことを漏れ聞いたのである。どこがどのようにという具体的なところまではわからないが、芝居作りの現場はさまざまで、かんたんに演出に問題がある、俳優の力が足りないなどと断定はできない。

 この反省の上で敢えて指摘するのが、バーのママを演じた三澤さきの演技である。いかにも「酸いも甘いも噛み分けた熟練のママ」という類型になっていない点はよかった。しかし店のささやかなことを揶揄されて本気で怒る様子など、相手がお客だろうと昔なじみだろうと、思ったことを歯に衣着せずにぽんぽん言う人物としても、拘置所という特殊な場があり、やはりそこで普通 のサラリーマンとはそうとうに異なる職務につく男たちが集まる店において、本音や愚痴やぼやきを言いたくなる店のママとして、また電器店の兄とひそかに心を通わせている女性として、少々元気が良すぎないだろうか。 おそらく役柄としては三澤の実年齢より年上の設定と思われ、さらに物語がはじまって終幕までに数年が経過することから、その幅をさりげなく示す必要もある。

 劇作家がバーのママに何をさせたいのか、舞台でどのように生きてほしいのか。それに対して俳優が納得できるところ、そうでないところ、こうしてみたいという希望や、ほかの役柄とのバランスなど互いに話し合い、試行錯誤しながら、この役にふさわしい着地点を慎重に探る必要があったのではないか。

 時間と場所の設定が明確でない場合、観客にとってはそれに変わるさまざまなものがより確かである必要が出てくるのである。それは登場人物がどれだけ確かに舞台で存在しているかにかかっており、それによって観客は劇の世界をとらえることができるのだ。

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