因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

wonderland劇評セミナー第5回

2011-11-19 | 舞台番外編

 劇評サイトwonderlandが10月から5回にわたって、フェスティバル/トーキョー(以下F/T)で上演された演目についての劇評セミナーを行った(於:にしすがも創造舎)。
 セミナーの最終回、本日の講師は堀切克洋さん。早稲田大学演劇博物館研究助手で、新進気鋭の演劇評論家である。
 因幡屋はこのF/Tなるものにまったく食指動かず、告白しますと1本もみていない。
 それでも「合評会だけの参加も可」という主催者側のご厚意に甘えて、セミナーに参加することになった。舞台をみないのだから課題劇評も提出せず、完全に「劇評を読む」ところからのスタートである。

 降りやまない雨のなか、講師、wonderland編集部の方々ふくめ9人でセミナーがはじまった。
 対象演目は、高山明のPort B「Referendum-国民投票プロジェクト」と、ジェローム・ベル『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』である。講師の執筆されたものも含めて!事前に提出された課題を無記名で並べ、どの劇評がおもしろかったか、その理由はなぜかを話し合う。その場合、自分の劇評は対象外とする。つづいて今度は反対に「なぜその劇評をおもしろいものとして選ばなかったか」を議論するのだが、自作がどれかをぎりぎりまで明かさないというところが実にスリリング。しかし雰囲気は終始なごやかで堅苦しさはない。

 

 講師・堀切さんのレクチャーの柱は「劇評を書くときに、自分をどう位置づけるか」である。
 自分とみている舞台の一対一の関係で書くものがブログやツイッター、日記であり、客席に存在しているほかの観客を「もうひとりの自分」としてとらえ、複数の視点を考えて書くか、また客席からも少し距離をおいた地点において書くかで、劇評のあり方が変容する。
 文中の「わたし」という主語が、かぎりなく書いた人本人そのものであるか、「わたし」と書きながら自然に(あるいは巧妙に)多くの読み手を「わたし」のなかに取り込んでいくことも可能であり、無記名のコラムやエッセイ風のものであっても、字数や文体に関わりなく、「批評的」な文章として成立し、読み手の需要も確実にある。

・・・批評と感想文の決定的な違いはどこにあるかは常に悩ましい問題であるが、つまりは「わたし」の立ち位置がどこにあるかであろう。舞台をみている「わたし」がこの文章を書いている「わたし」で一貫しているものが感想文であり、そこから「わたし」が消えて、取り上げた対象が浮かび上がってくるものが批評なのでしょうね・・・

 対象演目はいずれも実験的なパフォーマンス風のものであり、戯曲と俳優と劇場という枠組みを壊し、観客を迷わせるものである。自分の嗜好とは正反対で、『国民投票プロジェクト』にいたっては、果たしてこれが演劇といえるのかとも思う。自分がほぼまちがいなく避けて通る分野であり、だからこそ劇評を読むことによって、その舞台について考え、自分がみている限られた舞台だけでなく視座をひろく、深くする可能性が生まれるのだ。

 さらに、掲載される媒体が紙かWEBかによって読み手の集中力が変容することも考慮して書く必要がある。「わたし」の立ち位置だけでなく、読んでいる「あなた」のことも忘れずに。

 本日提出された劇評は、さらなる論考と推敲を重ねて再提出されて来週(←訂正)水曜日にWEBサイトに掲載の由。セミナーでの議論や講師のアドバイスを参考に、ある方は論考をより深く掘り進め、より鋭く切り込み、またある方はより軽妙に筆を躍らせながら懸命に取り組んでおられることだろう。楽しみだ。

 演劇にとって、また演劇をみる人にとって劇評は必要であり、演劇をより深く考え、楽しむことを可能にする大切なものであることを確信できました。
 不勉強者を受け入れてくださった主催者と講師の堀切さんに感謝いたします。
 ありがとうございました。

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