因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座9月アトリエの会『石を洗う』

2024-09-15 | 舞台
*永山智行(こふく劇場)作 五戸真理枝演出 公式サイトはこちら 信濃町/文学座アトリエ 19日終了 永山作品観劇の記録→1,2

 物語は東日本大震災の前の年、2010年に始まる。九州の熊本の小さな村に暮らす人々と、郊外から都心へ通勤する福島出身の男性とその周辺を行き来しながら進行する。

 開演して観客を戸惑わせるのは、特殊な形式の戯曲である。登場人物はそれぞれ自分の台詞を発語すると同時に、「サエはそう思った」など、ト書きというよりも、まるで小説の地の文を朗読するように、人物の思いや行動、その場の状況などを語るのである。通常ならば、俳優の動きや表情によって認識するものを、「すべて語られている」と言ってもよく、しかし俳優はいずれも朗々と語るというより、わりあい自然な口調で「話す」感じに近いためか、いつのまにか戸惑いから解放された。

 しかしながら、やはりこの形式には劇作家の意図があるわけで、それを知りたいのである。15分の休憩を挟んでの2幕形式であるから、後半にその解答が得られるのではないかと期待したのだが、結局この形式がずっと続いたことの方に困惑と疲労が残った。小説の立体化というのか、叙事詩的な形式はこれまで体験した記憶がないが、何度も使える手法ではないだろう。

 つぎつぎに場面転換があることや、電車の吊り革部分や白いレインコートなど、俳優のあいだで小道具のやりとりもめまぐるしい。人物その人として演じるだけでなく、コロス的な演技も並行する形式を自然にこなす俳優陣の確かな技術、作品に全身を委ねる姿勢に改めて感じ入った。

 物語は、やがて訪れる3.11を予感させながら終わる。故郷がどれほど傷つくかを知らないまま、「来年の春、お彼岸には戻りたい」と語る男性の明るい表情に胸がつまる。震災から13年経った今、物語の人々はどこでどうしているのだろうか。
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