*マキタカズオミ 作・演出 公式サイトはこちら サンモールスタジオ(1,2,3,4,5)
震災による諸事情のため、初日が延期になった。開演前に制作者から劇場の作りは堅牢であり、万一停電になっても自家発電で上演ができること、不測の事態の場合はスタッフの誘導に従ってほしいことがきちんと説明される。通常よりもさまざまな事態に備えて神経を張り廻らせていること、しかしその中でできるだけ平静に上演を続行しようとする作り手の意志が伝わってくる。観客も作り手と同様、この異常事態における「在り方」が問われているのだと思う。
東京ではないどこかの町、場末のスナックが舞台である。ママと数人のホステスと客たち、配達の酒屋、タクシー運転手などが出入りする。いずれもさまざまにわけありだが、それが明かされることが本作の中心ではない。
タイトルの「劣る人」について考える。容姿の劣る人が登場する。自分でじゅうぶんわかっていても、半端な情愛(傍からみれば金目当てであることは明白)にわずかな希望を託していたことが無残に否定された末の凶行が本作で起こる事件なのだが、決してそれが軸ではないとみた。マキタカズオミの特徴は、登場人物の事情や背景、ことの真相がなかなか明かされず、かといってそれを追うのが目的にならない点だと思う。みるほうに提示する情報の出し方の加減が実に微妙であり、それを「匙加減」「作劇術」といった劇作家の技巧的なものとすることに自分はためらいがある。こうしたほうがより謎が深まって劇がおもしろくなるとか、サスペンス度が高まるなどという計算上に成立するものではなく、あとはお客さまが想像してくださいと委ねるわけでもない。マキタという劇作家の基本的な資質であろうと思われる。
俳優の台詞に劇作家の綿密な取材や溢れるばかりの思いがいささか詰め込まれ過ぎの情報過多な芝居や、大声の早口で台詞が聞き取れない芝居をみたせいかもしれないが、今回の『劣る人』に対して、いろいろな意味で「まともな芝居をみた」実感を得る。登場人物のうち幾人かについては「俳優さんの使い方がもったいないのではないか」と思われるところがあったが、その数人の事情や背景がわかったからといって何かが解決するわけではないのだ。実際の日常には多くの人が現れたり消えたりする。必ずしもすべての人が「何かを話そう」「何かをしよう」として存在するわけではないからだ。マキタカズオミの新作は猟奇的なキワモノではなく、平熱の日常がふとしたきっかけで高熱を発してしまう状況、そしてまた平熱を取り戻す様子が提示されている。「まともな芝居をみた」という自分の実感はここからくるのだと思う。
ミナモザ主宰の瀬戸山美咲がスナックのママ役で客演している。自分は作・演出の2005年夏『デコレイティッドカッタ―』にほんの少し出演していたのをみた記憶があるだけで、本格的な俳優としての瀬戸山をみるのはこれがはじめてになる。中年女というにはまだ少しではあるが、ママもホステスも露出の多い衣装のこの店で、髪型や背中や二の腕や腰のあたりに漂う「やさぐれた」感じ、終盤にタクシー運転手とのやりとりなどに、この女性が体験してきたさまざまなことが控え目に伝わってきて、過剰な説明台詞や演技よりもよほど説得力があった。
舞台ぜんたいについては「あと3歩」くらいほしいというのが正直な気持ちであったが、芝居をみるという日常の感覚を取り戻すことができて嬉しかった。数日の初日延期はあっても上演してくれたことに感謝したい。
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