*野田秀樹 作・演出 公式サイトはこちら 東京芸術劇場中ホール 31日まで
交通事情で観劇を断念した友人の知り合いからチケット救済の連絡あり、ありがたくいただくことにした。親戚のお子さん、楽しみにしていらしただろうに。申しわけなさとありがたさ半々の気持ちで劇場に向かう。開演直前に野田から客席にメッセージがはじまり、途中からしか聞けなかったが、異常事態であるが敢えて上演を行う決意表明と受け取った。作り手側もみる側もいろいろな面で覚悟が必要であり、しかしいたずらに混乱しパニックに陥るのでなく、心を確かに持ちたい。
ここ数年野田秀樹や蜷川幸雄の舞台に対する関心が嘘のように弱まってしまったせいもあって、今回も新聞や雑誌の紹介記事等をあまり真剣に読んでおかなかったことを反省している。観劇するしないは別問題として、どんな演劇がどのような意図をもって上演されているのかに対して常にアンテナを張っておかなければ。
富士山むかいの「無事山」火山観測所が舞台である。そこに自殺未遂者の女性(蒼井優)が救出される。彼女は虚言癖があり、観測所の職員や新しく赴任してきた南のり平(妻夫木聡)たちを振り回す。この火山に天皇の行幸の話が持ち上がり、地元の旅館の三姉妹(高田聖子ら)や、天皇皇后のお毒見役(銀粉蝶、藤木孝)、役行者(野田)たちが乱入して大変な騒動となる・・・というのが物語の大枠である。
山の噴火もさることながら劇中たびたび地震が起こる場面があり、3月10日までならたぶん平気だったろうが、翌日から周囲の状況も自分の感覚も激変した。舞台で起こっている地震なのに皮膚がざらつくような恐怖、嫌悪感がわきおこる。作者がいまの状況を予測していたわけではないだろうし、開演前のメッセージのなかにもこの旨が盛り込まれていたと記憶するが、それにしてもあまりに時を得ていて空恐ろしい。
火山噴火を予言する嘘つきとそれに右往左往する人々、現在と300年前、さらに太平洋戦争時と時間軸はめまぐるしく変わっていくが、描こうとしているのは天皇制をもつこの国の在り方への問いかけであると見た。天皇皇后の偽物(行幸に備えての予行演習用というか)が登場するのは、井上ひさしの『夢の痂』を想起させ、本作につかこうへいと井上ひさしへのオマージュを込めたということも何かの記事で読んだ記憶がある。描き方、手法はつかや井上とは大きく異なる。野田は各メディアのインタビュー、寄稿、公演パンフレットには、本気とも冗談ともつかない口調ながら「この国は何なのか、自分たちは何なのかをもっと必死で考えよ」と怒りをもって投げかける。事件や事故が起こった当初は国中大騒ぎだが、時が過ぎれば問題の本質を忘れ、放置してしまう。その姿勢を舞台表現のなかで追求しているのだ、
いつにも増して多くのことが盛り込まれ、舞台美術や30人近いアンサンブルの動きなどに目を奪われるが、そこからどう考えるかが難しい。野田の頭についていけないぼやきかもしれないが、舞台ぜんたいがいささか騒々しすぎではないか。敢えて非常に低いレベルのことを言えば、登場人物にはあそこまで大声の早口ではなく、もっとじっくりと台詞を発し、こちらにしっかりと届けてほしいと思う。非常に重たく深刻なことを扱う場合、井上ひさしはとことん事象と向き合い、その姿勢をそのまま登場人物の台詞に、ことばに折り込んだ。そのすがたは愚直といってもいいほどであり、その姿勢がみるものの心をうつ。しかし同時に真剣であるあまり、過剰に感じられるのも確かである。野田の表現は「愚直」という方向性を持たないと自分は思う。同じ天皇制を扱うにして、野田は二重三重に虚構を施し、簡単に感情移入をさせない。それは野田の優れた資質であり、(いい意味で)挑発と同時に、「簡単に感動などするな」と警告のメッセージも感じ取れる。何とかそれを受けて立ちたいのだが。
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