*ウィリアム・シェイクスピア原作 河合祥一郎翻訳 蜷川幸雄演出 朝倉摂・中越司美術 公式サイトはこちら 彩の国さいたま芸術劇場で15日まで その後大阪はじめ国内を巡演し、台湾、ロンドンへも
2003年晩秋、21歳の藤原竜也が挑んだ『ハムレット』は、まことに鮮烈で忘れがたいものであった。15歳で蜷川幸雄演出の『身毒丸』の主役に抜擢されて以来、さまざまな経験を積んでいたとはいえ、「いきなり最高の役」(何かの記事)が来てしまったことのプレッシャーはいかばかりかと察する。しかし藤原はその重圧や葛藤すらも若さによるエネルギーに転化して、まさに火花の散るかのようなハムレットをみせた。技術や経験値によってではなく、そうするしかなかった、それでもやりきったのだ。まさに「時分の花」であり、自分の肉体、肉声、存在のすべてを掛けて咲かせたのである。
時分の花をみた観客が、「まことの花」をみたいと願うのは、当然のなりゆきである。
あれから12年が経ち、32歳になった藤原竜也が、オフィーリアに満島ひかり、その実弟の満島真之介がレアティーズ、これまで共演が多く、強い信頼を寄せる横田栄司がホレイシオ、そしてクローディアスに平幹二郎、ガートルードを鳳蘭の豪華布陣に囲まれて、再び蜷川の演出に挑戦する。
初日あけて1週間で、朝日新聞に扇田昭彦による劇評が掲載された。疑問点や問題点なども率直に指摘しつつ、「79歳の蜷川が見せる、まだ進行形という感じの『ハムレット』である」と結ばれている。その後、同じ朝日に蜷川が執筆するコラム「演出家の独り言」の最初の1行が「きのう、朝日の夕刊に演劇評論家・扇田昭彦氏の『ハムレット』の最低の劇評が出た」であった。
さまざまな評価はどうしても気になるものであり、素通りはできないであろう。高評価はうれしく、そうでないものには落ち込む。「最低の劇評」とは、劇評として最低だということか。それは批評の切り口や、文章表現、その評論家の舞台のとらえ方などが「最低」なのか。何を持って、どこがどう具体的に「最低」というのだろう。「最低」とは、それこそ最低の評価である。それを公の、しかも同じ媒体でここまで直裁に言ってしまうのはいかがなものか。
88年に渡辺謙がハムレットを演じた舞台を、ある新聞記者が酷評したところ、蜷川が劇場ロビーに反論のメッセージを掲げたことを思い出す。これもいかがなものかと思う。明らかに悪意をもった誹謗中傷であればまだしも、舞台で答をみせるのが順当であろう。
俳優でも演出家でも小説家でも、作品をみてくれる人がいなければ成立しない。どんな批評であっても、それがたとえ評者のとんでもない誤解や誤読、あるいは評者が未熟であるためであっても、プロの作り手であれば甘んじて受ける。自身の演出家としての方向性はぶれないなら、そのまま走りつづければよいし、考えるところがあれば、批評によって方向転換することもよいと思う。要は世界のニナガワには、もっとどっしりしていてほしいのである。
せめて「最低の劇評がでた(笑)」とでもしてあれば、酷評も含めて(扇田氏の批評は、決して酷評ではない)人によってみかたはさまざまであることも伝わってきて、観客としては舞台も、その批評もいっそう楽しめるようになる。
さらに上演前の舞台には、今回の舞台美術に対する説明文が映し出されているのにも、正直なところ困惑した。必要だろうか。扇田氏は、「この装置をもっと全面に出したほうがいいのでは」と控えめな発言をしておられた。19世紀の長屋の装置は装置としてあるだけで、デンマークの貴族たちは、石造りの城壁や重厚な扉ではなく、やぶれた引き戸から出入りするのみである。なぜだろうかと素朴に疑問を抱く。上手には注連縄をされた古井戸があるものの、これが使われるのは舞台後半でクローディアスの平幹二朗が半裸になって水をかぶる場面のみである。
鮮やかに思い出されるのが、2003年春上演の『ペリクリーズ』の導入部である。いつの時代のどこの町ともわからぬところ、銃撃や空爆の音が響くなか、傷つき疲れ切った人々が重い足取りで舞台に集まってくる。もの悲しく重苦しい音楽のなか、人々の動きは恐ろしく緩慢だ。心身ともにあまりに疲弊しており、歩くことができないのか。人々はいささか長いのではと懸念を抱くくらいのあいだ、ある者は舞台上を彷徨い、ある者は横たわる。そして静かに舞台前面に整列し、客席に向かって深々と辞儀をしたのである。
旅の一座がこれから一夜の芝居をご覧にいれます。この趣向を観客は一瞬で理解し、客席にはこれに応答する拍手が起こった。
あの場面に台詞や解説文はなかった。それでも、いやそれだからこそ観客は演出家の意図を受けとめ、それが単に趣向や手法ではなく、この作品をより力強く作り上げるために必要なものであることを確実に感じ取った。これ以上のものをみせてほしい。80歳になり、重篤な病のなかで演劇を作り続ける蜷川に、わたしはもっともっと要求したいのだ。
2度めのハムレットに挑戦した藤原竜也の演技がこれでいいのかそうでないのか、じつはよくわからない。ただ、もっといろいろなアプローチがあり、造形があると思う。今回特異だったのは終幕のフォーティンブラスの造形であるが、これはいかがなものであろうか。観客の既成概念を覆すものを示そうとする心意気は喜ばしいが、この造形によって、作品ぜんたいをどう構築しようとしたのか。
『ハムレット』に正解はない。数百年も上演されつづけてきたのに、いまだに多くの俳優、演出家を悩ませ、観客を魅了する。どうつくるのか、どう味わうのか。作り手と受けて双方に課題を与え、希望を抱かせる。何と罪作りな作品であることか。だからわたしはあきらめない。これからたくさんの俳優によって演じられる『ハムレット』に再会する日が訪れるのを、それが藤原竜也ならなおさら。
扇田昭彦は、蜷川の演出を「79歳にしてまだ進行形という感じ」と評した。観客もまた進行形なのだ。
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