4月22日、岡山市旭川河畔・京橋河川敷で初日を迎え、神戸・湊川公園の上演も無事に終わって5月6日から新宿・花園神社へ。その後雑司ヶ谷・鬼子母神から再び花園神社へ戻り、6月11日、長野市城山公園ふれあい広場でフィナーレとなる。1990年初演からこのたびで6回目。久保井研の演出家デヴュー作品(1998年)でもあり、唐組の財産演目だ。自分は2015年版が初見であり、このときはほぼ30年ぶりの紅テント観劇(そのときのblog記事)とあって、あれから8年が過ぎたことに愕然としつつ、4年ぶりに桟敷席になったテントの前から4番めに腰を下ろした。
エンタメ情報サイト「メディアスパイス」に、丘田ミイ子による唐組稽古場からテント設営までを追った特別密着レポートが掲載されている。その中で特に印象深いのは、稽古場で久保井が繰り返し投げかけていたという次の言葉である。
「作家が選んだんですよ、この言葉を」。
戯曲のどの場面、どんな台詞なのか、どのような稽古の状況で発せられたのかは記されていないが、このひと言に、久保井と劇団唐組が唐十郎戯曲に取り組む姿勢が表れていると思う。発語が難しかったり意味がわからなかったり、俳優にとって困難な台詞であった場合にこそ、「それでも劇作家はこの言葉を選んだのだ」と立ち戻ることによって、新たな造形が生まれる可能性があるのではないか。
町内に「水を恐がる犬」の噂が広まり、騒ぎになっている。保健所員の田口(岡田優)は噂の元をたどり、ある焼鳥屋の二階にたどり着く。二階の押し入れに、時次郎という名の犬を暮らす飼い主の合田(久保井研)、焼鳥屋で働く物言わぬモモ(大鶴美仁音)、そのモモに執着する犬の調教師・辻(稲荷卓央)、そしてモモに似た別の女性(藤井由紀)も登場する。
今回大躍進したのは「愛と孤独の女教師白川」役の福原由加里と、彼女を慕う少年マサヤ役の升田愛である。避暑地の大女優風の優雅なワンピースに白い帽子で登場する白川が醸し出す濃厚な空気は、「場違い感」とでも言うのだろうか。おっとりと登場するが、それまでに主軸の人物たちが構築している劇世界に容赦なく斬りこむ。その白川を慕うマサヤもまた、鋭いナイフのようだが、かなりずれたところもあって、二人のやりとりは客席は大いに沸かせる。福原は貫禄すら漂わせて白川をたっぷりと演じ、升田は「こんなにしゃべる人だったのか!」(そこではないのだが)と驚嘆するほど、唐戯曲の長台詞を生き生きと発して気持ちがよい。二人とも破壊的な勢いを持ちながら、決して暴走しない。
例えば白川を加藤野奈(今回はマサヤの母。この人も相当危ない人物だ)、マサヤを重村大介(今回は焼鳥屋の客)の組み合わせも有りではないかと妄想が沸く。とんでもないことになりそうで、ぞくぞくする。過去上演の配役を調べてみると、2006年は白川を唐十郎と辻孝彦がダブルキャストで、さらに少年マサヤ役を十貫寺梅軒というから、もう想像できない。それくらい自由で振り幅のある役柄であり、俳優の持ち味を引き出し、劇世界をさらに面白くする役割を持つと思われる。
田口役の岡田優は今回唐組初参加である。序盤こそ硬さがあったものの、物語が進むほどに熱を帯びで狂おしく、常連にして盤石の客演陣・保健所の小役人役の友寄有司のほどのよい悪のりぶり、「この人が登場すれば大丈夫」という安定感とともに、「しかし何をやらかすのか」という不安を同時に掻き立てる上田役の全原徳和ともに、劇団の十八番と言ってよい『透明人間』に新しい風を吹き込んでいる。
作家が選び抜いて記した言葉。あるときはそれに食らいつき、あるときは身を委ね、心身を捧げるように演じる俳優に圧倒され、恒例の屋台崩しによって、物語は夜の闇に溶け込んでゆく。カーテンコールの福原由加里による役者紹介は実に歯切れ良く、客席からの拍手のタイミングやリズムを心得て見事。
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