*テネシー・ウィリアムズ作 広田敦郎訳 松本祐子演出 公式サイトはこちら 信濃町・文学座アトリエ 23日まで
本邦初演は1961年、杉村春子主演による文学座公演とのこと。自分は文学座の倉野章子主演のTPT公演(『地獄のオルフェ』2000年秋 こりっち掲載ページには配役もきちんと出ており、大変有益)を観劇して以来となる。
本邦初演は1961年、杉村春子主演による文学座公演とのこと。自分は文学座の倉野章子主演のTPT公演(『地獄のオルフェ』2000年秋 こりっち掲載ページには配役もきちんと出ており、大変有益)を観劇して以来となる。
松本祐子演出の舞台では、昨年9月の『マニラ瑞穂記』、同じテネシー・ウィリアムズの2010年秋、新国立劇場小劇場上演の『やけたトタン屋根の上の猫』が記憶に残る。
アメリカ南部の田舎町の雑貨店を舞台に、自由に羽ばたきたいと切望する魂が、因習と偏見と暴力によって無残に踏みにじられるさまを容赦なく描く。休憩を挟んでおよそ3時間の大作である。
名越志保は、その顔立ちや芸風から「和物」のイメージが強い。特に2000年12月、俳優座プロデュース公演の久保田万太郎『かどで』(坂口芳貞演出)において、乳飲み子を抱えて北海道に渡る女中のおせん役が心に残る。その後、2016年12月文学座アトリエの会公演の『かどで』では、そのおせんを見送る大店の奥さまを演じた(演出は同じく坂口)。しかし同時に、同じ年の4月アトリエの会公演のイプセン『野鴨』(稲葉賀恵演出)の母親役も忘れがたい。夫から不貞を追求されて、「知りませんよ」と強い口調で言い返す。和物、洋物といった括りを越えた、リアルで確かな造形を見た(リンクした過去記事と記述が重複するがご容赦を)。
今回名越が演じるレイディはイタリア移民の娘である。恋人の子を身籠るが結婚は叶わず、葡萄農園とワイン酒場を営んでいた父親は黒人相手に商売をして町の有力者たちに惨殺され、身売り同然にジェイブ(髙橋ひろし)と愛のない結婚をした。深い傷を抱える彼女の前に表れたのが、蛇革のジャケットを着て、ギターを抱えた青年ヴァル(小谷俊輔)である。
レイディだけでなく、素行の悪さで家族から疎まれ、居場所のないキャロル(下池沙知)もヴァルに惹かれる。画家で敬虔なキリスト者だが、保安官の夫(廣田高志)に愛されているとは言えないヴィー(鬼頭典子)は、レイディとキャロルとは別の次元でヴァルを必要としている。ヴァルを見た誰もが「色男だ」と言う。ハンサムや二枚目、美男子ではなく、ましてはイケメンなどでもない「色男」という言葉には、容姿が美しいことへの称賛だけではない、嫉妬や嫌悪、自分の領域を脅かす存在への恐れが感じ取れる。
今回ヴァルに抜擢された小谷俊輔は、細身の体形や彫りの深い整った顔立ちが魅力的だ。ヴァルは現れただけで女たちの心をざわめかせるが、それは同時に男たちを(ひいては町ぜんたいを)敵にまわすということだ。よりによってどうしてこんな色男が、こんな不幸だらけの町に流れてくるのか。
声を強く張り、オーバーアクション気味の演技のために、その俳優が本来持っている良き資質や、これまで培ってきた経験が封印されたのかのように、やや凡庸な造形の人物が幾人かあることが残念だ。作品の内容や性質から致し方ないのかもしれないが、もっと抑制した陰影のある造形も可能ではないだろうか。そのなかで看護師役の赤司まり子の静かな口調が逆に際立つ。
誰一人幸せにならない悲惨な物語だ。劇作家はなぜこの作品に執着し、17年もの年月をかけて取り組んだのか。人物の設定や背景があまりに強烈で共感するには困難があること、希望と生命の力に満ちた復活祭を迎えようとする日に最悪の結末を迎える幕切れに言葉を失う。
2010年の『やけたトタン屋根の上の猫』は、観劇後に不思議な体験をした。戯曲とその序文を読むことによって劇世界が一変しただけでなく、劇作家テネシー・ウィリアムズに対して、親近感が湧いてきたのである(因幡屋通信37号「友だちになろう」)。残念ながら『地獄のオルフェウス』はいまだに書籍が入手できず、読んだのちどうなるのか楽しみでもあり、さらに迷いそうな予感もあるのである。
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