*アントン・チェーホフ作 沼野充義翻訳 栗山民也演出 公式サイトはこちら 赤坂ACTシアター 12日まで
渋谷駅の構内にあった横長の大きな広告にこう書かれていた。正確ではないが「世界中で100年以上も上演されているのは理由があります」これは主催者の考えでもあり、演出家や翻訳家の信念、あるいは出演者の気合いでもあるだろう。有無を言わさぬ強さと自信にちょっと引くが、その通りだと思う。その理由を知りたくて自分は劇場に足を運び、戯曲を読むのだ。
☆よく知られた作品ですし、仰天するような仕掛けや演出ではないのですが、一応このあたりからご注意を☆
はじめて『かもめ』をみたのはモスクワ芸術座の来日公演であった。イヤホンガイドをつけての上演は物語の流れも登場人物の関係もほとんどわからず、猫に小判とはまさにこのことであった。それからいろいろな座組で『かもめ』をみた。最も腑に落ちる、というか自分の感覚にあっていたのは蜷川幸雄演出版で、シアターコクーンの稽古場?での上演がテレビ放映されたもので、実際にみたものではない。少々おふざけが過ぎるところもあったが、岩松了版はからりとして楽しかったな(えびす組劇場見聞録に劇評掲載)。
藤原竜也のトレープレフとなったら、みないわけにはいかない。役柄と実年齢のバランスもぴったりであるし、共演陣もちょっとどうかと思うほどの豪華版である。これが自分の『かもめ』決定版になるか?
休憩をはさんで3時間、表現しがたい違和感を覚えた。まず作品の性質に対して劇場が大きすぎるということだ。傾斜のきつい赤坂ACTシアターは、前の席を気にせず舞台ぜんたいが見通せる利点はあるが、2階席からオペラグラスでは、表情の微妙な変化やしぐさをすべて追うことはできないし、ならば頑張って1万円の席ならば堪能できるかというと、そうでもないような気がする。次に沼野充義の新訳へのひっかかりである。自分はロシア語はわからず、これまでの訳をすべて網羅して理解しているわけではないのだが、「あらら、こういう言い方になるの」と思うところがいくつもあって、それが舞台ぜんたいを楽しむことを妨げるほどではないにしても、耳にも心にもしっくりこない感覚が残る。
舞台をみればみるほど、戯曲を読めば読むほどにさまざまな味わいがあり、その都度発見が与えられる作品であると思う。どの役も単純な造形はできない。ひとりが熱演すればどうにかなるものではなく、ぜんたいのバランスも非常にむずかしい。中でもトリゴーリンというのは相当な難役ではないか。周囲にひきずられ、自分の主張を持たず(持てず)、複数の女性の人生を翻弄し、破滅させる。そのことに対して特に悪びれもせず、「おいしいとこ取り」のずるさがある。「あの俳優さんに是非演じてほしい」という強いイメージが抱けない役だ。そのトリゴーリンに鹿賀丈史は、ぴったりとももったいないとも感じる微妙な塩梅なのだった。
さらに終幕、トリゴーリンは舞台下手に置かれたトレープレフの机のそばにたたずむ。アルカージナ(麻実れい)のいる中央のテーブルとは、すでに離れた位置である。ドルン(中嶋しゅう)が文芸誌をネタにトリゴーリンをアルカージナから離れた場所にひっぱっていってトレープレフの自殺を告げるには、少々矛盾というか無理がある立ち位置ではないか?と猛烈な疑問がわいた。
残念ながら赤坂の『かもめ』は自分の決定版にはならなかった。しかし同道の友人は『かもめ』の戯曲(神西清訳)を買い求め、「今度違う上演があったらみてみたい」と意欲をみせていたし、自分もまた戯曲をもう一度読み直している。『かもめ』の初演から100年以上たつ。自分がはじめて『かもめ』を知ってから20年近くが経っているのだ。5分の1だぞ。チェーホフは時間がかかる。時間がかかってもいいのだ。そういう作品に出会えた幸運をもっと喜んで、自分の『かもめ』を追い求めていこう。
渋谷駅の構内にあった横長の大きな広告にこう書かれていた。正確ではないが「世界中で100年以上も上演されているのは理由があります」これは主催者の考えでもあり、演出家や翻訳家の信念、あるいは出演者の気合いでもあるだろう。有無を言わさぬ強さと自信にちょっと引くが、その通りだと思う。その理由を知りたくて自分は劇場に足を運び、戯曲を読むのだ。
☆よく知られた作品ですし、仰天するような仕掛けや演出ではないのですが、一応このあたりからご注意を☆
はじめて『かもめ』をみたのはモスクワ芸術座の来日公演であった。イヤホンガイドをつけての上演は物語の流れも登場人物の関係もほとんどわからず、猫に小判とはまさにこのことであった。それからいろいろな座組で『かもめ』をみた。最も腑に落ちる、というか自分の感覚にあっていたのは蜷川幸雄演出版で、シアターコクーンの稽古場?での上演がテレビ放映されたもので、実際にみたものではない。少々おふざけが過ぎるところもあったが、岩松了版はからりとして楽しかったな(えびす組劇場見聞録に劇評掲載)。
藤原竜也のトレープレフとなったら、みないわけにはいかない。役柄と実年齢のバランスもぴったりであるし、共演陣もちょっとどうかと思うほどの豪華版である。これが自分の『かもめ』決定版になるか?
休憩をはさんで3時間、表現しがたい違和感を覚えた。まず作品の性質に対して劇場が大きすぎるということだ。傾斜のきつい赤坂ACTシアターは、前の席を気にせず舞台ぜんたいが見通せる利点はあるが、2階席からオペラグラスでは、表情の微妙な変化やしぐさをすべて追うことはできないし、ならば頑張って1万円の席ならば堪能できるかというと、そうでもないような気がする。次に沼野充義の新訳へのひっかかりである。自分はロシア語はわからず、これまでの訳をすべて網羅して理解しているわけではないのだが、「あらら、こういう言い方になるの」と思うところがいくつもあって、それが舞台ぜんたいを楽しむことを妨げるほどではないにしても、耳にも心にもしっくりこない感覚が残る。
舞台をみればみるほど、戯曲を読めば読むほどにさまざまな味わいがあり、その都度発見が与えられる作品であると思う。どの役も単純な造形はできない。ひとりが熱演すればどうにかなるものではなく、ぜんたいのバランスも非常にむずかしい。中でもトリゴーリンというのは相当な難役ではないか。周囲にひきずられ、自分の主張を持たず(持てず)、複数の女性の人生を翻弄し、破滅させる。そのことに対して特に悪びれもせず、「おいしいとこ取り」のずるさがある。「あの俳優さんに是非演じてほしい」という強いイメージが抱けない役だ。そのトリゴーリンに鹿賀丈史は、ぴったりとももったいないとも感じる微妙な塩梅なのだった。
さらに終幕、トリゴーリンは舞台下手に置かれたトレープレフの机のそばにたたずむ。アルカージナ(麻実れい)のいる中央のテーブルとは、すでに離れた位置である。ドルン(中嶋しゅう)が文芸誌をネタにトリゴーリンをアルカージナから離れた場所にひっぱっていってトレープレフの自殺を告げるには、少々矛盾というか無理がある立ち位置ではないか?と猛烈な疑問がわいた。
残念ながら赤坂の『かもめ』は自分の決定版にはならなかった。しかし同道の友人は『かもめ』の戯曲(神西清訳)を買い求め、「今度違う上演があったらみてみたい」と意欲をみせていたし、自分もまた戯曲をもう一度読み直している。『かもめ』の初演から100年以上たつ。自分がはじめて『かもめ』を知ってから20年近くが経っているのだ。5分の1だぞ。チェーホフは時間がかかる。時間がかかってもいいのだ。そういう作品に出会えた幸運をもっと喜んで、自分の『かもめ』を追い求めていこう。
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