*デヴィッド・オーバーン作 詩森ろば翻訳・演出 SHIBAURA HOUSE5階 6月1日まで(1,2,3,4,5,6,7,8、9,10,11,12,13,14,15,16)
主宰の詩森ろばがはじめての翻訳に挑戦し、デヴィッド・オーバーンの戯曲に挑んだ。本作は2001年に鵜山仁演出、寺島しのぶ主演の舞台を皮切りに、なぜかこれまで数回みたことがある→1,2,3
サンモールスタジオで上演中の谷賢一翻訳・演出版はどうするか、悩ましい。
数学者が登場する物語なのだが、数学についての具体的な話がまったく出てこないので理数系が苦手でもだいじょうぶ。ならば数学ではなく物理学や生物学などほかの学問でもよいかと言うと、やはり数学でなくてはこの作品は成立しないのだと思う。数字が好き、算数が得意という人の感覚が、自分にはまったくわからないのだが、数学という学問、その世界に魅せられた人々、数学にも神が存在するなら、まちがいなく彼らは数学の神から選ばれ、愛された子たちなのだろう。
会場のSHIBAURA HOUSEはさまざまなイベントを行うスペースで、演劇専用の建物ではない。しかしJR田町駅からの道のりは明るく開放感があり、エレベーターが小さいのとロビースペースがほとんどないこと、トイレが1階しかないのは不便だが、渋谷や下北沢とちがう雰囲気に気持ちも新鮮になって楽しい。昼と夜とでは、町の様子も舞台の印象もがらりと変わると想像され、自分は夜にもう一度みたくなった。
さて詩森ろば翻訳・演出による『proof』である。
天井がかなり高く、カーテンが閉まっているので昼間なのに薄暗い。四角い空間の奥側に 数学者の家のテラスがつくられており、客席は二方向からそこをみるつくりになっている。日ごろ劇場として使われていない空間というのは、入った瞬間に背筋がスースーするのだが、これは肌寒いくらいにエアコンが効いているせいばかりではないだろう。客席に座っても、何となく落ち着かない。
9月4日深夜、この家の次女キャサリンの誕生日に物語がはじまる。テラスのテーブルにひとりたたずむキャサリンのところに父のローバートが登場し、誕生祝いのシャンパンを手渡す。いっしょに飲もうとする娘のことばを数回にわたってやんわりと断る父には事情があった。彼はこのとき、すでにこの世の人ではないのである。キャサリンだけがその姿をみて、話をすることができる。これはある意味で数学者版『父と暮らせば』なのだった。
一場が終わったとき、左右のカーテンがするすると開けられ、ガラス張りの大きな窓から芝浦の町が一望できる仕掛け。右手にはモノレールが走り、空にはヘリコプターが飛んでいたり、ニューヨーク摩天楼とは言えないまでも、一種の「借景」的効果であろう。
これには長短あって、よくも悪くも昼間の芝浦の町は明るく、あまりに日常的であり、自分には眼前のシカゴ郊外のテラスで数学をめぐる議論をしている人々の物語とギャップのほうが強く感じられた。またその後はカーテンはずっと開きっぱなしで強い日差しが入り、舞台に設置された照明がほとんど効果を失ってしまった。
本作はキャサリンと父のやりとりに、姉のクレアや父の弟子でありキャサリンに思いを寄せるハルなどが絡んだり、過去の場面が挿入されていたり、一杯道具の舞台でさまざまに交錯するのである。この場面の変容を客席に示すとき、照明の効果は大きいと思われる。太陽の明るい日差しのなかで大半が行われるとき、ややぎくしゃくした印象になったことは否めない。 これが夜の公演であればどんな雰囲気になったのか。
もうひとつ気になったのが音響である。場面転換のときにかかる音楽にびっくりした。自分には音量が大きすぎると感じられたためである。天井が高く、劇場専用ではない空間では響きが変わるのだろうか。できれば一考されたい。
あらためて戯曲の圧倒的な力を思わされる。それに臆さず果敢にぶつかった詩森ろばと俳優陣、公演に関わった方々の健闘が清々しい舞台であった。数学の心得のある人は、物語で語られている「証明」がどんなものなのかを知りたいのではなかろうか。自分は理数音痴なのでまったく気にならなかったが、終幕でハルが言うところのかつてのロバートの「優雅な証明」というものを少し知りたい。
数字は数字なのだが、「数学」にはそこに関わった人々の生身の存在があり、息づかいがある。『proof』に登場する人々は、数学の証明をしながら、みずからの人生の存在証明を行っているのだと思う。だから日々の暮らし、家族や恋人とのふれあいもまた数学の証明と密接に関わっているのである。
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