因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

『THE BIG FELLAH ビッグ・フェラー』

2014-05-28 | 舞台

*リチャード・ビーン作 小田島恒志翻訳 森新太郎演出 公式サイトはこちら 世田谷パブリックシアター 6月8日まで 
 その後兵庫、新潟、豊橋、滋賀を巡演 
 森新太郎演出舞台の記事はこちら→(1,1',2,3,3',4,5,5',6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19
 2012年本邦初演となった『ハーベスト』に続いて、森新太郎がリチャード・ビーンに挑む。今回はアメリカ・ニューヨークを舞台に、イギリスから北アイルランドの分離を求めるカトリック系過激派IRAの男たちの30年を描いたものだ。『ハーベスト』の養豚農家の物語は100年だったので、今度はその3分の1だから少しは楽かと思いきや、これがなかなかハードなのである。

 タイトルロールのビッグ・フェラーことIRAニューヨーク支部長コステロを演じる内野聖陽は、「20年に一度の作品」と惚れ込み(朝日新聞より)、本格的な稽古がはじまる前から翻訳の小田島恒志、演出の森新太郎、共演者とともに戯曲の原文にあたりながら、本作に描かれた国家や宗教、人種問題について勉強を重ねたという。その熱い意気込みが客席に向かって弾丸のごとくぶつかってくるような舞台であった。

 1972年3月17日、セント・パトリックス・デイ(Wikipedia)にはじまる物語は、年月の刻みが一定ではなく、10年近く経過したそのあとの幕が同じ年だったり、1年後であったりする。舞台右の壁にその場面の年号が映写されるものの、人物のやりとりや様子に集中することが求められる。

 服装や髪形、ことばづかいなどで年月の経過はわかるが、そこにくるまでこの人物に何が起こり、彼の内部にどのような変化があったのかは、前述のようにことばの裏にあるもの、表情や動きなどから読みとることが必要だ。それは演じ手にとっても同じで、表面的な変化をつけるだけでは不十分で、人物の内面をより深く知った上で決してあざとくならず、技巧を抑制した表現が求められるだろう。

 アイルランドという国の特殊性や民族性、IRA組織や世界情勢についての知識や、それに基づく自分なりの考察があれば、本作はいよいよ強く深く迫ってくるだろう。しかしそうでなければ味わえないことは決してなく、観劇をきっかけに興味がわくこともあるだろうし、周辺知識を抜きにして男たちの熱い物語を堪能することも可能だ。

 翻訳劇の上演ということについて少し考えた。外国の作品をそのまま(少し幼稚な表現です)演じるのは演劇の特徴である。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を日本人俳優が日本語で演じる映画・・・を想像するとそうとうにユニークであり、何か特別の意図があるものと思われる。しかし舞台なら肌や髪の色はそのままに、日本語で演じることに違和感はなく、客席も「そういうものだ」と受けとめる。そこに演劇ならではのリアリティがある。ただし無理や不自然生じるのはいたしかたない。ロミオ、ジュリエットと呼び合っていても、目の前にいるのは自分と同じ肌の色をして日本語で話す俳優なのだから。

 しかしもしかしたらそこにこそ、演劇だけの特別な効果があるのではないだろうか。

 『ビッグ・フェラー』が欧米人俳優によって演じられる舞台や映像を想像してみよう。日本人が演じる舞台の違和感は払拭され、リアルなものとして受けとめられるはず。だがかの国のリアルを自分の住む国や自分の心象に引き寄せて感じとることができるだろうか。むしろ日本人が日本語で演じる外国の物語から感じる違和感や無理や不自然から、作品のもつ普遍性や自分たちとの共通点を探ろうとする気持ちが掻きたてられるのではないだろうか。

 今回はどういうわけか心身が舞台についていかないところがあった。もっと集中度を高めて『ビッグ・フェラー』にぜひ再会したい。

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