昨年の公演(1)がたいへんおもしろく、みきかせは自分にとって「はずせない公演」のひとつとなった。今回は「塩味」=MU/バジリコ?バジオ、「甘味」=ゲンパビ(1,2)/楽園王+オクムラ宅(1,2,3,4)の組み合わせである。開幕して4日めの今日「甘味」を観劇した。
*ゲンパビ『何かの部品』
阿部ゆきのぶ作・演出 どこかの国の小さな町で民宿を営む家族があり、その部屋に間借りしている派遣行員たちのふれあいを描いたもの。
*楽園王+オクムラ宅『華燭』
舟橋聖一作 長堀博士(楽園王)演出 奥村拓(オクムラ宅)出演
2008年の「奥村拓を遊ぶ会」で初演以来何度もくりかえし再演され、何と今回で5演めだという。自分は2011年の1月に観劇した。受け手の需要度が高く、作り手もその希望に応えるべく上演のたびごとに練り直し、よりよいものを目指していることが伺われる。
最初にゲンパビ『なにかの部品』が上演された。地方の小さな町で民宿を営む夏目家が舞台である。他国と戦争が行われており、徴兵制もあるというから、リアルな現実のいまではなく、時代は近未来に設定されている。戦争や徴兵制など、昨今の憲法改正や集団的自衛権にまつわる動きを反映した内容から、ゲンパビの舞台に政治的な要素や社会劇の面をみたことがなかったこともあり、これまでの作風から別の方向へ一歩を踏み出したかと思わせた。
このみきかせリーディングの特徴は、①「台本(と言い張るもの)を持つ」、②「大道具は使わない」、③「上演時間45分以内」というルールがあることだ。どれもが作り手にとっては制約であり枷であるが、それらを逆に作品に活かすことも可能であろう。とくに①の「台本を持つ」については遊びの要素を取り入れたり、逆手にとって楽しむこともできる。
ゲンパビがリーディング劇に取り組むのはこれがはじめてとのこと。
出演俳優はたしかに全員が台本を持ち、それを読みながら演技をする。その点においてはまちがいなく「リーディング」である。しかし頻繁に舞台への出入りがあり、場所の移動や転換も少なくない。台本がその場面における「資料や書類」の役割を果たしているところもある。また客席通路まで使う場面もあって、こうなると「リーディングの形がもったいない」と思えてくるのである。台本をもたず、本式の上演であれば作者の伝えたいことがもっと強く示されるのではないかと。
みきかせプロジェクトのリーディング公演は、取り急ぎの上演形式ではない。稽古日数が短く、俳優の稽古がじゅうぶんにできなかったから・・・というマイナス要因ではなく、「この作品をぜひともリーディングでおこないたい」という必然をもつ作品のための公演である。
『なにかの部品』は、題名からしてさまざまな想像をかきたて、期待を抱かせるものである。 民宿に寝起きして大工場で働く派遣行員たちは、自分たちが何を作っているのかを知らない。「なにかの部品」を作っているのだという。その「なにか」が核兵器など世界を破壊しかねないおそろしいものであるらしいことを暗に示しており、同時に「なにかの部品」を機械的に作らされている人間そのものが社会の部品として消費されていることに対する批判、警告ともとれる。
作品の何を客席に伝えたいか。リーディングのかたちをどのように活かすのかをいま一度じっくり考えてみる必要があるのではないか。もっと掘り下げたならどんな展開をみせるのかを知りたい、楽しみな作品である。
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