因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

パラドックス定数第31項『殺戮十七音』

2013-11-23 | 舞台

*野木萌葱作・演出 公式サイトはこちら 荻窪小劇場 24日で終了(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17
 JR荻窪駅で降りるのは何年ぶりだろう、そしてはじめての荻窪小劇場だ。
 南口から徒歩10分とのことだが、線路沿いにまっすぐ歩いて青梅街道にぶつかったら右折してすぐなので、それほど遠くはない。パラ定の公演はいつも早めに劇場に行き、受付開始前から並ぶことにしている。全席自由席であるし、今回はことさら席数少ない由。お天気も小春日和といってよい陽気で助かった。
 さて入ってみると想像していたよりずっと小さい!壁や天井が黒いこともあって、いよいよ狭く感じられる。しかもこれまた狭そうなステージには俳優4人がすでに椅子にかけてこちらをみているではないか。なるほどこういうはじまりなら、ぎりぎりまで開場できないことがわかる。4人とも白いシャツに黒のパンツだが、シャツは襟のかたちなどが少しずつ違い、よくみると何か文字が書かれている。
 開演前の主宰・野木萌葱の挨拶はいつもとおりきっちりと始まり、「多少の地震の揺れがきても芝居は止めないと思います」と力強い。パラ定はそうでなくっちゃ。
 開演前から挑戦的な気配を濃厚に発するほぼ1年ぶりの最新作、思わず前のめりになった。

 情けないが先に白状せざるを得ない。今回自分は舞台を味わうに至らなかった。吸い寄せられたのは最初のほんの数分だけで、あっという間に集中が途切れ、どうしても起きていられなかったのである。風邪が9割治りかけの体調はよくも悪くもなく、おなかの空きぐあい、劇場の空調のあんばいなども、とくに問題はない。台詞のやりとりがやりとりに聞こえない、ひとつの台詞を聞いて、つぎの台詞につなげられないのだ。

 パラドックス定数との出会いは『三億円事件』である。現実に起こった事件を作者が独自の視点で読みこみ、もしかしたら?ひょっとすると?と、みるものをぐいぐいと引き寄せる舞台のとりこになった。『東京裁判』(1,2)はその感覚がさらに鋭く深くなり、はずせない劇団のひとつになったのだ。ときおり事実に対する想像というより、作者脳内の妄想らしき世界を描いたものもあり、遊び心や冒険が前面にでる作品もまた魅力的である。

 しかしそれにしても今回は、劇世界のどこにどのようにして入っていけばよいのか、とうとう最後までわからなかった。タイトルが示すとおり、「俳句」がひとつのモチーフになっていることはたしかである。精神科医とそこに訪れた患者がおり、場面切り替わって妻を寝とられた男がその相手と対峙していて、夫婦が俳句教室をやっているらしかったり、複数の場面が入り乱れながら進行する俳句のような散文のような会話はつかみどころがない。上演台本を一読したが、頭に入っていかない。これは野木作品でははじめてのことで、どうしたものか困惑する一方である。

 新しいことを取り入れるのはよい。これがパラ定だという枠からどんどんはみ出して、観客の安易な思い込みや期待をぶっ壊して驚かせ、大いに迷わせてほしいと願っている。しかし何をやろうとしているのかここまでわからないと、単に困ってしまうのだ。作者は「俳句を格好いいなと、思ったのです」と記す(当日リーフレットより)。劇中にも「創り手がどこにいて何を見ていようが、鑑賞者にはそれを否定する手段がないのです。たった十七音で、人間は宇宙にも行ける」、「基礎に埋没したまま、どこへも行けない俳句もあります」、「作者みずからが己の句を説明してはなりません。突き放し突き放し鑑賞者に委ねるのです」、「本当だけでは味気ない。かと言って嘘はいけません。嘘をつくのはいけません」などなど、俳句初心者の自分にさえ、俳句指南のことばとしてまともに響く台詞がたくさんある。
 しかし告白してしまうと、これらの台詞を自分は観劇中にしっかりと心に刻むことができなかった。上演台本を読んでようよう、いや読んで初めて「こんな大事な台詞があったのか」と驚いている始末なのだ。

 これ以上書いてもほとんど意味をなさない記事になる。本作についてはここでひとまず置く。
 考えすぎないほうがよいかと思う。
 俳句そのものについての台詞を読みかえして、来月の句会に備えることにしよう。

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