*エドワード・オールビー作 徐賀世子翻訳 千葉哲也演出 公式サイトはこちら シアタートラム 19日まで
『動物園物語』は、自分にとってなかなかめぐりあうご縁のない演目のひとつであった。文学座有志によるユニット(H.H.G)や、中野成樹+フランケンズが野毛山動物園で行った公演など、何度か機会はあったのに、あとひと息の元気が出なかったのだ。今回は演出家として大躍進中の千葉哲也の演出で堤真一に大森南朋の顔合わせ、さらに劇作家がみずから半世紀を経て新たに1幕を書きくわえた作品の本邦初演とあって、この夏いちばんの楽しみとなった。今月はじめにえびす組の集まりがあって、すでにほかのメンバーは観劇を済ませていた。どういうわけか皆浮かぬ顔なのである。夫婦(堤真一、小泉今日子)が登場する第1幕はわからないものの、戯曲を読んでピーター(堤)とジェリー(大森)の会話を想像してはいよいよ期待を募らせていただけに少々戸惑った。えびす組のメンバーは皆思慮に富み、心優しい。舞台について具体的なことは極力言わず、これから観劇する自分に委ねてくれた。千秋楽まぢかになって、期待と不安はんぶんで劇場中央最前列!につく。
結論から言うと、自分は今回の舞台を非常におもしろくみることができた。不安は杞憂だったわけで、まずはそのことを喜びたい。特に大森南朋は舞台経験豊富な堤真一を相手に少しもひけを取らない堂々たるものだ。一度も台詞を噛まず、からだの動きも敏捷。ジェリーはほぼ1時間一方的にしゃべりっぱなしの困った青年なのだが、ただの「うざい人」になってしまっては、それを聞き続けるピーター役が成立しなくなる。相手に困惑と嫌悪と恐怖だけではない、驚愕の終幕を迎えるまで舞台に引き留めておく、ある種の「魅力」が必要なのではないか。
「話したいことがあるの」。妻からこう切り出されると、夫の心はにわかに波立ち始めるだろう。第1幕は妻のアン(小泉)のこの台詞から始まる。だがその直前、妻が暗闇(どこかの街角か?)に物憂げに佇む情景があり、これから始まる会話劇、夫婦間に存在する深淵を覗き込む思い。妻は結婚生活に大きな不満を抱えているのに夫はそれに気づかず、妻から「話したいことがあるの」と切り出されたときには既に末期症状であった・・・というのは想像できる話であるが、本作において妻はそういうつもりはまったくないらしい。性生活がもの足りないことだけはさすがにわかりましたが、かといってそのために夫と別れたいほどに思いつめているわけではないし、終幕に「愛してるわ」と告げることばは真実だろう。この人はちゃんと夫を愛している。
実際のところ、この第1幕をどうとらえるのか、第2幕との関連をどのように考えればよいのか、いまだにわからない。ジェリーの勢いに乗せられてついつい家庭のことを話してしまうピーターの台詞を聞けば、どうしても前段のアンが思い浮かぶ。しかし具体的なイメージがなければ第2幕が味わえないとも思えないし、今回が『動物園物語』デビューの自分にとっては、「何も知らずに第2幕をみておけばよかった」という後悔がないでもない。たしかに妻からあそこまで挑発的でわけのわからない発言をされて打ちのめされたあとでジェリーにつかまってしまうと、妻とのやりとりの余波が想定外の影響をピーターの心に与えるだろう。家庭には妻というモンスターがおり、そこからしばし逃れようとしたが、外界にもジェリーというもう1人のモンスターがいたという見立てもあるだろうし、もしかするとジェリーは刺激を欲しがるアンによって生み出され、ピーターにもたらされた妄想上の使者のようにも思えるのだった。
第1幕から2幕の場面転換がおもしろく(松井るみ/美術)、何不自由ない家庭で突如繰り広げられる夫婦の会話の裏側で、公園のベンチとジェリーがピーターがやってくるのを不気味に待ち受けていた印象。カーテンコールで流れた小気味良いメロディの音楽は何という曲だろう。あっけにとられる終幕だが、3人の俳優の健闘に心から拍手をおくり、とてもよい心持ちで劇場をあとにした。
ピーターがジェリーと出会ってしまったのは偶然か必然か。もしかするとその答は永遠に出ないのかもしれない。あるいは正解はないとも考えられる。自分と『動物園物語』との出会いは、『アット・ホーム アット・ザ・ズ―』と装いを変えて2010年の夏にやってきた。願わくはこの出会いが必然となりますように。
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