*キャリル・チャーチル作 安達紫帆翻訳 高橋正徳演出 公式サイトはこちら アイピット目白
12月5日まで
8月に観劇した劇団フライングステージの『トップ・ボーイズ』は本作をベースにしているが、戯曲『トップガールズ』から実際の舞台を想像するのに難儀していた。思いがけず公演があることを知り、すぐにみにいくことを決めた。演出は文学座若手の高橋正徳、出演者も文学座や演劇集団円はじめ手堅い布陣である。
戯曲の指定では、主人公のマーリーン以外の女優は1人数役を演じる。劇書房発行の戯曲『トップガールズ』の翻訳者あとがきによれば、1992年の上演はその指定に忠実であるが、今回は微妙に異なっており、それが演出の効果を狙ったもうのなのか、今回の座組みの事情によるものかはわからない。これもあとがきに記されていることだが、1人が何人もの役を兼ねる意味については、「初演時の予算の関係で、たくさんの女優を使うことができなかったから」とのことで、今回の配役についてもあまり深く考えなくていいのかしら。
戯曲を何度か読み返して流れが頭に入っていることもあり、舞台の空気はわりあいすんなりと受け入れることができた。戯曲には「台詞についての注」というページで、2人の人物の台詞が重なりあったり、複数の人物が同時に話していたりする場合の注意書きがあり、自分の戯曲読みが正しいのかどうか半信半疑で読んでいたが、これは実際に演じるほうも相当な困難があると思われる。この指定はどういう意図で行われたのだろうか。あまり注意しなくてもいいときもあるが、両者が丁々発止の大議論をしている場面ではどちらも重量な発言をしているにも関わらずどうしても聞き取れないこともあって、もどかしかった。現実の日常会話では双方が怒鳴り合うこともあるし、相手のことなどお構いなしにとにかく自分の言うべきことを今言っておかねばということもある。しかし芝居でそれが行われてしまうと、みている自分は彼女たちの言いたいことを聞き取れない、理解できないことを申しわけなく、残念に思うのだ。
身も蓋もない言い方になるが、昇進を控えた現代の女性マーリーンを囲んで古今東西のトップガールズが集ってパーティを催す第一幕。この場面は必要なのだろうか。虚実入り混じって展開する様子には遊び心があるし、俳優の達者な演技も楽しめる。しかしそれらが第二幕に有機的なつながりを持っているのかどうか、自分は確かな手ごたえを得ることができなかった。たとえば法王ジョーンを演じる女優が、少女アンジーを兼ねること。ここに意味や意図を探すべきなのか。
疑問の多い観劇であったが、楽しめなかったということではない。戯曲読みではさっと流していた場面に意外なおもしろさを感じたところがいくつもあった。たとえば第二幕で主筋の人物の話のなかに、人材派遣会社での面接場面がいくつか挿入されている。仕事を求めてやってくる女性たちはどこかピントはずれで勘違いしている。ホンの紙面からは愚かさを感じたが、実際の女性たちをみていると何とかして自分を認めてほしい、いまの状態から抜け出したいと必死にもがいている様子が感じられ、痛ましく思った。「トップガールズ」になれるのは昔も今もほんのひとにぎりだ。しかしひとにぎりの人たちだけでは社会は動いてゆかない。トップガールズになれない女性たちの力も絶対に必要なのだから。
あらためて『トップガールズ』はおもしろい作品だと思う。今回は若手、中堅、ベテランとバランスの取れた座組みであったが、たとえば若手のみで行ってみても何かしらの成果が得られるのではないか。また今回はベテランの2女優が少女役を兼ねており、これは好みの問題でもあるが、もっとさらりとした造形を(つまり女優の実年齢と役とのギャップを強調しない)みたい。本作のおもしろさは自分が想像するよりもっと深く、痛いところにありそうだ。これからまた戯曲読みに戻って、このつぎにめぐり会える『トップガールズ』に備えたい。
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