*根本宗子作・演出 公式サイトはこちら 下北沢駅前劇場 19日まで(1,2)
10月から年明けすぐに新作公演を打つとは大変な筆力である。そのあいだもバー公演やクリスマス公演などの演劇はもちろんのこと、NHK・Eテレの「青山ワンセグ開発」で鴻上尚史と堂々と競い合ったり、根本宗子はぶっとばすような勢いだ。書きたいことがあふれるようにあり、かつそれを形にするエネルギーも仲間もいる。いやもう、その意気でどんどんゆけ!
駅前劇場の横長の舞台には、ドアやキッチンの流しの位置や家具の配置などが酷似した部屋がふたつ並べてつくられている。当日リーフレットの配役表には、9人の人物のうちの5人が「阿部ちひろ・・・福永マリカ/大竹沙絵子」といった具合に、ひとりの人物を2人の俳優が演じることが示されている。舞台美術と配役表をみるだけで、これから始まろうとしている芝居がどのような構成なのか、何となく察しがつく。
19日まで上演があるので詳細を書くのはためらわれる、しかし書けることは書きたい、何を書けばだいじょうぶで何ならだめなのか、実に悩ましい。しかしそれを考えることはほんとうに楽しい。いやもう、どうしよう・・・。
20代前半の女性3人の恋愛模様と、彼女たちの10年後が同時進行する物語と言ってしまえばその通りである。女性やその恋人の仕事や性格はさまざまなだが、しっかり者でがんばり屋の女の子に、◎●志望、▼△を目指すと言えば聞こえはいいが、実際は生活能力のない幼稚な男という組み合わせも珍しくはない。幼なじみからは再三別れるように忠告されているが、意地もあって別れられない。いつかきっと彼は立派になって、わたしを幸せにしてくれる。 ほんとうは信じていないかもしれないのに、「信じていない」「信じられない」と認めることが怖くてずるずるした挙げ句、気がついたら30才になって、いまだ同じアパートに住みつづけ、彼はもはやヒモ同然になっている。
このように書いていくと、ことさら特異な設定や物語ではない。現実にも、これまでみたどこかの何かの芝居にも、いかにもいそうな女性に男性。根本宗子の舞台は、そのありそうなことをこれでもかとこれでもかと、ことこまかに突きつけてくる。
人には誰しも、未来に何が起こるかがわからないから不安である。しかし「何も起こらないかもしれない」という不安もあるわけで、本作の主人公阿部ちひろはまさに10年間何も起こらず結婚も出産もできないまま、ほぼ無職の彼氏を抱えて30才になってしまったのだ。
これから30才になろうとする人には背筋が寒くなる話であろうし、30才すらとうに過ぎてしまった身にしてもわかっている、よく知っていると思いながら目が離せない。それは自身のこれまでの人生に対するノスタルジーや後悔や諦念など、あらゆる感情をもってしてもなお表現しつくせないある種の感情を呼び起こすのだ。
登場人物のキャラクターの描きわけ、演じる俳優の巧みなことは言うまでもなく、小さな台詞やしぐさに巧妙に仕込まれたあれやこれやも実におもしろい。
ひとつ気になったのは、主人公ちひろの幼なじみである「えっちゃん」という存在である。主人公をいちばんよく知っていることを自負し、ちひろの出演する芝居は必ず号泣するほど応援している。ものをはっきり言うタイプだから、あんな彼とは別れたほうがいい、女優をつづけてと執拗に求める。別れろと言われると意固地になるのが人情というもので、いかにも「わたしは正しいことを言っている」という態のえっちゃんは、だんだん嫌な女に見えてくる。
このえっちゃんを主宰の根本宗子自身が演じていることをどう捉えるのか、というのが本記事を書いているいまの自分の課題である。単に根本は演出も兼ねているのだから、出番が少なめの人物に配したということではなかろう。
過去と10年後の物語が同時進行して最後に交わる。実際にあのラストシーンは「ちょっとまとめ過ぎではないか」と思いながらもついぐっとくるものがあった。
現実には過去の自分に会うことはできない。しかし出来ることならいま幸せでいたい、あれこれあったあのときの自分に向かって、「みっともなかったけれど、よくがんばったよね」と言ってやりたい。また過去の自分から軽蔑されるような恥ずかしい人間にはなっていたくない。
「夢も希望もなく。」というタイトルは少々ベタであるし、句読点の「。」にしても、もう少しどうにかしたほうがと思うのではあるが、本作を見終わった心持ちは爽快であった。
当日リーフレットに「多分私は、テレビや映画じゃ観られないものを作りたくて演劇をやっています」と根本が記したように、演劇でなければできないことが確かにある。これから30、40、そして50歳と年を重ねる根本が何をみせるかを想像するとき、自分は大いなる夢と希望を与えられているのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます