*フジダタイセイ作・演出 公式サイトはこちら サンモールスタジオ 13日まで第14回公演『2020』(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10)
途中5分と10分の休憩をはさみ、上演時間は150分だ。仕事のあと急いで帰宅しても、19時の「開演」までにあれこれを済ませて150分の長丁場の視聴に臨むのは難しく、結局初日の視聴は落ち着かないものとなり、後日アーカイヴを視聴した。途中メモを取りながら、自分のペースでひと休みしたり、聞き取りにくかった場面はもう一度観たりなど、リアルな観劇とはおよそ異なる態である。そのおかげで得たものもあり、得られなかったものあり、いずれも含めてこの度の『2020』体験としたい。
途中5分と10分の休憩をはさみ、上演時間は150分だ。仕事のあと急いで帰宅しても、19時の「開演」までにあれこれを済ませて150分の長丁場の視聴に臨むのは難しく、結局初日の視聴は落ち着かないものとなり、後日アーカイヴを視聴した。途中メモを取りながら、自分のペースでひと休みしたり、聞き取りにくかった場面はもう一度観たりなど、リアルな観劇とはおよそ異なる態である。そのおかげで得たものもあり、得られなかったものあり、いずれも含めてこの度の『2020』体験としたい。
結成から10年目を迎えた劇団林檎の会。田瓶市という(出たぞ、今回も)地方の町で、最初は趣味のサークル風だった集まりが、いつのまにか人が増え、立派な建物で共同生活を営み、観客動員数も伸びて、注目を集めるようになった。そこに目を付けた雑誌社から、ライターとカメラマンが取材に訪れる。劇団は「2020計画」なるものを進めており、さらなる飛躍を目論んでいるらしい。
細かい規則があったり、リーダーが「個人レッスン」と称して、お気に入りの女性団員を侍らせていたり、担当によっていくつかの「省」があったり、その様相はほとんどカルト宗教の集団であり、山梨県上九一色村のオウム真理教のことが生々しく思い出された。
舞台には透明の板を貼った白い枠が置かれたり、天井から釣り下がったりしている。マスクをつけた登場人物が小さな枠を手にもってリモート会議の様子を見せたりなど、現状を反映しつつ、俳優同士や舞台から客席への飛沫感染防止の役割も果たしている。
団員同士の恋愛は禁止されていても恋は生まれる。ぎくしゃくしたやりとりには初々しさがあり、町の古道具屋のあるじが二人を密かに見守っていたりする。かと思うと取材に来ていたカメラマンが劇団員になってしまったりなど、コミュニティは少しずつ壊れ始める。
「毎日健康、演劇は世界を救う」という掛け声の「演劇」を「宗教」や教祖の名の置き換えれば、劇団とカルト教団には共通性があり、管理され抑圧されることを厭いながら、やがて自らが弱い相手に対して同じように振る舞い始めることや、異議を唱える者は問答無用に「卒業」させたりなど、舞台はみるみる猟奇的な展開を見せる。
とてつもなく魅力的なカリスマ(劇作家、演出家、俳優)を有する劇団とカルト教団との共通性は、わりあい想像できるものであろう。その人に憧れ、どんな苦労があってもその人のもとで芝居ができることを幸せと喜ぶ姿はまぶしくもあり、人生を捧げるほどののめり込み様に、もし報われなかったらと考えると寒々とする。
サスペンス的な要素があることや、やはり配信視聴は劇場での観劇と同じにはゆかず、把握しきれなかったところもあって詳細は記せないが、本作は結成して10年を経た劇団肋骨蜜柑同好会とフジタタイセイによる演劇讃歌であり、演劇活動が思うようにできない現状へに対する苛立ちや怒り、それでも演劇を続けるという決意表明である。また大切な人と会えず触れ合えないことに対するやりきれない悲しみの吐露でもあろう。
「もう演劇なんか、絶対やらないで」と「どうして演劇やらないの」と、相反する言葉が発せられる。なぜ演劇をやるのかという問いは、同時になぜやらなくなったのかに通じる。出会いと別れを繰り返しながら、フジタと劇団肋骨蜜柑同好会は演劇という営みを続けてゆくだろう。自分は劇場で彼らの舞台に出会い、客席から伴走する。「転んでも負けるな」。最後の台詞は劇作家が自らとその仲間に飛ばした檄であると同時に、パソコン画面を通して自分にも発せられたと思っている。
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