*ジェズ・バターワース作 田曜子翻訳 青木豪演出 公式サイトはこちら 東京芸術劇場シアターイースト 26日まで
平成24年度文化庁新進芸術家海外研修制度を終了した劇作家・演出家の青木豪が、ロンドンで観劇した本作をみずからの手で演出し、日本初演の運びとなった。ジェズ・バターワースは近年注目度が高いとのことだが、自分が舞台をみるのはこれがはじめてである。
演劇における「正解」とは何だろうか。ひとつのテーマ、解答、命題に向かってひたすらことばを重ね、表現を吟味して追及する作り方がある。その一方で、何をどのようにやっても構わない自由があっても、それは同時に何をどうやっても正解にたどりつけないもどかしさに耐えなければならないことでもある。『The River』は後者の作品であろう。
山奥のロッジに一組の男女がいる。恋人どうしらしい。女(鬼頭典子)はすばらしい夕焼けを彼にみてほしいと言うのに、男(岡本健一)はトラウト釣りの準備に余念がない。どうにか支度をしていっしょに渓流に出かけたが、女は川に落ち、すがたを消す。これが発端である。
夜が明けて、男が警察に電話をかけたり半狂乱で女を探しているところに、女が戻ってくる。しかしその女は鬼頭典子から南沢奈央に代わっている。またそこからのやりとりのなかで、再び鬼頭典子が登場したり、鬼頭と南沢が同時に舞台にいたり、そして最後の最後に森尾舞が登場する。
同じ女性を3人の女優が演じ継ぐところに本作の演劇的旨みがあり、と同時に単に趣向や手法ではなく、この男性の意識の根本はどこにあるのか、女性の存在そのものが彼の幻想ではないのか・・・などということも考えさせる。役名が「THE MAN」(岡本)、「THE WOMAN」(鬼頭)、「THE OTHER WOMAN」(南沢)、「ANOTHER WOMAN」(森尾)とあるのはまったくその通りで、それ以上でも以下でもない。
こういう作品の場合、俳優はどのように戯曲を読み込み、役の性格や背景を想像して演技の肉づけをするのだろうか。台詞のほんのひとことから類推できるところもあるかもしれないが、限定された場所におけるこの一対一(一対多でもある)のやりとりは、彼らの特殊性というよりむしろ普遍性を示しているのではなかろうか。ああ、うまく書けない。
たとえば恋人が、過去にどんな相手と、どのようなつきあいをしてきたのかは気になるものであろう。また相手が代わったとしても、人のすることや考えることはそう変化しないもので、同じような楽しみを共有し、過ちを繰り返す。自分のそばにいる女は誰なのか、そして自分自身はいったい何者なのか。現実のわたしたちが、日々のあれこれに押し流されて考えないでいることを、舞台の彼らは示している。
ふたりのやりとりは、テンポよく快活に進むけれどもどこかずれており、この男女の仲がうまくいっているのかそうでないか、前述の夕焼けをみるみない といった些細なことがらが、やがて綻びを呼ぶのかなどといった推量を安易にさせない。そう簡単に「読める」ものではないのである。
劇場の中央に演技スペースを置いて、客席がそれを三方向から囲むかたちをとる。3人の女優は出入りがあるが、岡本健一はほぼ出ずっぱりである。近くに大きな川があると思われるロッジの雰囲気がよく出ていて、自然のなかにありながら、人の心の奥底の様相を感じさせる舞台美術(美術/長田佳代子)である。劇中には歌詞もメロディも印象的な歌が流れるが、それとはべつに、音が出ているのか気のせいなのかわからないような「音」もあり(音響/青木タクヘイ)、ほかに照明や映像、衣裳など、スタッフの仕事も充実が感じられる。
この一筋縄ではいかない戯曲に対し、肩に力を入れずに自然体で向き合った印象だ。これほど既視感のない作品はめずらしいのではないか。おそらく昼公演と夜公演、昨日と今日とで変化をしていく作品であると思われる。できればもう一度じっくりみてみたい。
3人の女性のなかで、森尾舞演じる「別の女」の出番は、びっくりするほど短い。出たかと思ったらすぐ終わる。女優3人は、年齢も容貌も声もさまざまで、まったく別の人格であるのにどこか似たようなところもある。どの女性にどの女優を配するかは演出家やプロデューサーの腕のみせどころでもあり、悩ましいものでもあろう。今回の公演ではどの女優さんも過不足なく演じておられ、好ましい印象をもった。最後に登場した森尾舞は、3人のなかでは個性がもっとも強く、性格も強そうにみえる。岡本健一は、ここからどのように彼女と付き合うのか・・・と思ったとたんに物語は終わる。
いや終わったのではなく、たまたまここで暗転になっただけだ、という気にさせるのである。この物語は終わってはいない。
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