*ウィリアム・シェイクスピア作 小田島雄志翻訳 鵜山演出 公式サイトはこちら 下北沢/本多劇場 3月1日まで (1,2,3,4,5,6,7)
加藤健一が事務所設立35周年を記念し、「カトケン・シェイクスピア劇場」と銘打ってシェイクスピアのロマンス劇を上演した。
欧米の優れた戯曲、小粋で愉快な作品を次々に上演している加藤健一事務所であるが、シェイクスピアは30年前に『キング・リチャードⅢ』を上演して以来だという。意外なことに驚くが、そういえばそうかもとも。カトケンのイメージとしては、客席をおおいに沸かせるコメディが圧倒的に強く、ここ近年では老いの問題や戦争の傷跡などを題材にしたシリアスなものもあるが、いずれも現代劇がレパートリーの中心だ。
シェイクスピア作品をおおまかにジャンル分けすると、喜劇、悲劇、歴史劇、そしてロマンス劇となる。ロマンス劇は、主人公とその周辺の人々が波乱万丈の荒唐無稽な物語ののちに、大団円のハッピーエンドを迎えるというイメージか。本公演の『ペリクリーズ』や『冬物語』、『シンべリン』など、後期の作品がそれに当たる。『夏の夜の夢』や『十二夜』をはじめとする鉄板の喜劇、『リア王』、『マクベス』、『ロミオとジュリエット』、『ハムレット』の有無を言わせぬ四大悲劇、『ヘンリー六世』などの重厚な歴史劇にくらべると、上演頻度も多いとは言えない。
物語がご都合主義的な面も多々あって、いろいろあっても最後はめでたしめでたし、と言ってしまえばそれまでなのである。
しかし、ロマンス劇とカテゴライズされ、そのほかの作品にくらべると、評価や立ち位置がいまひとつのいくつかの物語のもつ魅力に気づかされる体験をした。まず2003年春に蜷川幸雄演出による『ペリクリーズ』は忘れがたい印象がある。観劇がこのブログをはじめる前のことで詳しい記録がないのだが、今月はじめにみた同じ蜷川演出の『ハムレット』を考えるにあたって、少し記してあります。ご参考までにこちらをどうぞ。
そして2012年春に観劇した『シンべリン』。東日本大震災から1年が経過した春の観劇であった。このときのブログ記事はこちら。ここにも『ペリクリーズ』の回想を記しており、自分にとってあのときの舞台がいかに強い影響を与えたかがよくわかる。さらに『シンベリン』で確信したのは、人は物語を求めていること、想像を絶する困難な状況にあって、演劇による救いがたしかにあることである。
公演パンフレットによれば、加藤健一は「この歳になって、やっと『ペリクリーズ』の台詞だけは自分の体を通り、現代劇と同じ感情を使い、リアリティをもって喋れるかなと感じた」とのこと。あまたの戯曲を上演してきた加藤の実感であろう。
まさに満を持しての『ペリクリーズ』なのだが、じつは前半まで執拗な睡魔に襲われ、集中することがむずかしかったのである。どうしてだろうか?
白い幕を使った舞台美術(乘峯雅寛)は、時空の変化を自在にみせておもしろく、主演の加藤健一はもちろんのこと、「子供のためのシェイクスピア」で本作上演経験のある山崎清介、シェイクスピアシアター時代からのベテラン田代隆英、ミュージカルからストレートプレイまで幅広く活躍する福井貴一、どんな舞台であっても演技の芯が乱れない那須佐代子。、そして加藤健一事務所の秘蔵っ子加藤忍、父と同じ道を着実かつ雄々しく歩む長男の加藤義宗など、若手から中堅、ベテランまで非常に魅力的な布陣であるのに、なぜだろう?
理由のひとつは、初日開けて日にちが浅いことから、舞台ぜんたいの空気が温まっていなかったことであろう。また現代劇を上演する加藤健一事務所がもつ軽快なリズムが、ロマンス劇とはいえ、シェイクスピアの古典的で重厚な台詞術に、いまひとつしっくりしていないこともあるのでは?
さすがに主演の加藤健一はつややかな声と流麗な台詞まわしであったが、それがシェイクスピア劇におけるカトケンワールド(すごく軽いことばになってしまうけれども)に結実するには、もう少し時間が必要であると思われる。
俳優がシェイクスピアの台詞を自在にこなすには、大変な技術が必要であると思われる。しかし技術だけではいかんともしがたいものがあって、前述の加藤健一の「(台詞が)自分の体を通る」というのは、技術+何かではないか。蜷川演出の『シンベリン』終盤、吉田鋼太郎演じるシンベリン王が、死んだと思っていた息子がすばらしい青年になって再会したとき、息子たちを両脇に抱いて天を仰ぎ、大きく叫ぶ。その叫びは文字に置き換えることは困難なもので、いったいどんな演出がつけられ、どんな声を出そうとしてこの声になったのだろうかと考えたが、これこそが登場人物の心象が吉田鋼太郎の体を通り、肉声となって迸りでたのではないか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます